フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

命の書に名が記されている人が選ばれればいい

人間は勘違いをする。神のみこころが分かったためしがない。祈りによって人は変化しない。聖書を読むと、神とかかわった人たちが救われたようだ。だからといって、汎用性と再現性は通用しない。誰かの真似をしても、奇跡は起きない。

 

神中心だからだ。救いは、誰のためにあるのか?神のためにある。人間のため?それなら、多くの人を神は救えたはず。全知全能だから。

 

モーセパウロも同胞が救われるためなら、自分が救いを失ってもいいと本気で思ったことがあるようだが、その願いはかなえられなかった。

 

エスさまも、十字架上で彼らの罪をお赦しください、かれらは、自分が何をしているのかわからないからですと、祈ったが、その祈りは聞かれず、西暦70年に約110万人が殺された。

 

これらは、救いは神のためにある証拠である。ご自分のために、救われる人を取っておかれる。

 

ノアの時代も8人だけを選ばれた。

 

理由は本来、人は誰一人、救いに値する者がいないからである。ほかにいないため、神はだれかを選ばれるようだ。

 

何かがおかしく、何かが間違っている。人間がである。

 

これは、個人的な考えなので、間違っていることを期待するが、滅びはもう定められているのではないかということ。だから、いくら、聖書を学んでも変化しないし、祈っても変化しない。

 

信者は自分が救われることを夢見ている。だが、そうはいかない。なぜなら、イエスと結ばれていないからだ。

 

現代人は、神と会話ができない。ところが、ダビデでさえ、会話ができたようだ。

 

現代で、イエスと会話をしたという、その幻は、実は神ではない。本当はサタンであり、異言も呪文にすぎない。すべては、人間の思い込みに過ぎない。

 

いつの時代も人間の自分勝手な思い込みや意志ではなく、神のみこころがなされるのは、永遠に変わらない。

 

アーメン。