フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

信仰による救いとは?

エスが罪人のために死なれたのは、イエスを信じて従う人に、神が御霊を与えて、罪から解放するためでした。

 

「あなたがたが、罪を犯さないようになるためです。」と言われている意味がこのことだったのです。

 

 

この真理を、ただ、イエスを信じれば救われるだけでなく、「御霊による罪からの解放があるから救われる」のだと、真の福音を人々に伝えてください。

 

「福音はすべて信じる者に救いを得させる神の力」とはパウロのことばです。

 

「神の力」がまさしく上記に書いたことを指します。

 

 

アーメン

御霊の聖めによって新しく生まれたひとたち

1 イエス・キリスト使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、

2
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによってイエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

4
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

5
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わ

されるように用意されている救いをいただくのです。

6
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、

7
あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

9
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 

(ペテロ第一:1~9)

 

もし、わたしたちが、ペテロが手紙を書き送った人たちと同じ状態であれば、信仰の結果である、たましいの救いを得ているため、それで良いのです。

 

上記のひとたちは、救われた人たちです。

 

アーメン

 

 

キリスト教でいう「救い」とは「新しく創造される」ことです

 

「罪からの解放」が「新しい創造」であり、「救い」です。

 

これは、生きているときに、行われる「神の力」です。

 

ただ、信じる者が新しく創造されているわけではありません。

 

つまり、聖書に書いてある、それを信じている、だから、新しく創造されているのだ。ではないのです。

 

新しく創造された者だけが、体験として、救いを実際に経験します。

 

本当に分かっている者は体験者のみです。

 

十字架によって、自分の肉を殺した者が知る、新しい創造です。神の霊がなければ肉に勝てません。

 

新しく創造された者は、ヨハネパウロ、ペテロと同じく、罪からの解放を経験した者です。

 

主イエスが彼らを自由にしたからです。

 

新しい創造は、思い込みや、概念、ではありません。多分、経験しないと分からないと思います。

 

福音の真理を伝えることが出来ました。信じる者に救いを得させる神の力が現実の力だという真理を。

 

 

アーメン

 

 

邪悪な欲望を取り除く方法の違いについて

お釈迦さまとイエスさまの方法の違い

 

お二人とも、人の持つ邪悪な欲望を取り除けと言われました。同じですね。一方は人間の意志によって取り除けと命じられ、イエスさまも、人間の意志によって取り除けと命じられたように一見、思えます。

 

今のクリスチャンは、自分の意志では出来ないと悟っています。お釈迦さまの悟りと同じです。お釈迦さまも人間ですから、高尚な哲学として、語ることは出来ても、実践は難しいと思います。

 

お釈迦様は、難行苦行では出来なかった。

 

もし、悟り(煩悩の火が消えたニルバーナ)の世界があっても、生きている間は無理でしょう。

 

では、最初の命題をどう解くのか?

 

答えは、「御霊の力」です。

 

ヨハネ、ペテロ、パウロはこの力を神から受けていました。

 

これは、観念論ではなく、現実の神の力です。

 

彼らは、自分を十字架につけ、肉の働きを御霊によって殺し、罪から逃れたのです。

 

「狭い門」について証ししました。救われる者がこれを見出し、ここから通って行く狭い道です。

 

エスさまが見出す者は少ないと言われた、あの、「狭い門」、「狭い道」です。

 

これは、奥義です。

 

 

これが、救いの現実体験です。

 

あなたも、望むなら、あなたの信仰と神の恵みによって、神は与えてくださるとわたしは信じます。

 

ただし、合計、100回や1000回、祈った程度の信仰では無理だと思います。

 

なぜなら、兄弟たちは、すでに無理だと悟ったからです。

 

しかし、

 

罪から逃れた、救いの状態を終わりまで保つ信者たちを主イエスは救いに再臨されます。

 

黙示録に登場する人たちはまさに、上記の人たちです。

 

主は、いままで、はっきりしなかったことを明らかにされました。

 

彼らは、正しい行いをし、その口に欺きは見出されなかったのです。

 

彼らこそ、救いのために神から選ばれた人たちです。

 

エスさまは明らかにされました。

 

 

ハレルヤ、アーメン

人が減った未来宣教、XXXX年において

ここでの宣教が終わったら、次の都市へ行こう

 

もう、いないのでは?

 

そうかも知れない

 

しかし、続けよう

 

 

まず、祈って

 

ふさわしい人を見つけよう

 

 

 

神に彼らのこころを開いていただくように、よく祈ること

 

それから

 

人々に神とイエスの十字架の愛を伝えてゆこう

 

 

彼らに、まず、挨拶して

 

それから

 

必ず、御霊によって語るようにすること

 

聖書のみことばを、そのまま伝え

 

すべてを御霊にゆだねるように

 

 

主よ、この地にあなたの羊がいるなら、見つけることができますように

 

わたしたちをお導きください

 

あなたの愛によってわたしたちから恐れを取り除いてください

 

わたしたちが、大胆にあなたの御こころを語れるように

 

聖霊により、福音を伝える力をお与えください

 

イエス・キリストの御名によって

 

お祈りいたします

 

アーメン

 

 

それも、きっとあなたのみこころです。それでいいのです

誰がこのブログを書いているのか?祈りは誰がしているのか?自動書記ではないし、だれかが乗り移っているのでもない。

 

聖書の話はだれがしているのだろう?立方体の知識から縦横無尽に取り出すのはわたしか?それとも、もう一人のわたしか?意識が違うことは確かですが、私に違いないと思う。

 

こころが神にあるわたしは、きっと神によって語っているのだろう。いつでも、どこにいても。

 

神と共にわたしが語り、神と共にわたしが祈る。

 

 

エスさま。旧約聖書では、血を食べることを禁じていました。しかし、あなたは、ご自分の血を飲み、ご自分の体を食べることを話されました。ユダヤ人なら猛反発しますね。教えに反すると。

 

あなたが、神殿の近くにおられたとき、この神殿を壊してみよ、三日でわたしはこの神殿を建てると言われました。普通の人なら、誤解します。あなたの体のこととは思いませんから。

 

今のクリスチャンでも、当時そこにいたら、猛反発します。聖書と違うことを言っていると。かれらは、あなたの真意を知らないからです。

 

このブログもきっと同じでしょう。聖書の救いを解明しましたが、御霊を受けている人たちが、どうやら、ごくわずかのようです。

 

それも、きっとあなたのみこころです。それでいいのです。

 

アーメン

神さまを愛し信じる意味とは

それは、神さまとよい関係をつくるため

 

神との本来のよい関係にもどすため、人間は神を愛し信じることが必要

 

それには、神と人間との仲介者である、キリスト・イエスの十字架での購いが必要だった

 

エスは人間の罪のために死に、人間に永遠の命を与えるため、神はイエスを復活させた

 

エスを信じる者は御霊の証印を受け、救われる

 

信者の内に神の霊が宿っている限り、その人は肉ではなく霊の支配下にいる

 

エスと結びつく人は、命をもたらす霊の法則によって

 

罪と死の法則から解放される

 

これが、イエスを信じる者の信仰による救いである

 

アーメン