わたしの聖書の知識に関しては立方体を形成しています。点でも線でも面でもありません。立方体です。
まず、これが、わたしの聖書に関する知識の状態です。みことばを縦横無尽に取り出せる状態です。聖霊の働きによります。聖書解釈は神のみこころに沿っています。
朝、晩は、もちろん、いつでも、どこにいても祈ります。まず、神に感謝し、神を賛美し、お願い事もします。そして神の栄光のために生きています。
さて、おおまかにわたしがどういう状態の人かを伝えました。
次が大切です。パウロがいう「御霊によって歩みなさい。」が多分、多くのみなさんにとって分かりにくいことと思われます。このことばからは、神から、離れている状態の人間に御霊がやってくるといったイメージがわたしには感じられるからです。神とセパレートしているのです。
わたしは、罪から解放されています。それがどういう状態かをお話します。パウロ、ペテロ、ヨハネたちの表現が違っていても言いたい趣旨は同じです。まず、ことばの表現がたとえ、聖書に書かれていなくても、だからこの人のいうことは、違うなどと考えないようにしてください。
わたしは、いつでも、どこにいても、また何をしていても、栄光の神がわたしと共にいてくださるのです。これを神の臨在、聖霊の内住、キリストの内にいるなどと、どう表現してもいいのです。
要するに、愛する方といつも一緒にいたいという気持ちがわたしにあり、神が一緒におられ、神の愛が、喜びとして、わたしを捉えているのです。神がわたしと共におられるとは、音楽を聴くにしても、風景を見ていても、その他、何をしていても、神と一緒に、聴き、見て、歩き、話しをしているということです。
これは、失礼ですが、聖書解説者の方々に欠けていることです。こんな説明をしている人が一人もいないからです。
これで、救いの状態が少しでもご理解できたら、うれしいのです。
たとえば、神の喜ばれること、愛されることをすると説明しても、あなたがたには分かりません。
しかし、上記の話なら、分かるのではと思っています。
神様が、まるで、人間でいえば、愛する恋人のようだからです。恋人のためなら、なんでもする。
神様は人間よりもっと素晴らしい方であるのは、当たり前ですね。たとえとして、キリストの花嫁なら分かるのでは?
いくら信者が説教を聞いても信者は一向に霊的に進歩しない。しかし、もし、わたしたちが同じ御霊を飲んでいれば、わたしたちは仲間です。
アモレシテ ガウディウメウム テイプスマス フルギブント ルクス ヴェリタティス
あなたの愛はわたしのよろこび
あなたご自身がわたしたちを明るく照らす真理の光です
あなたがすべての被造物によって賛美と崇拝をお受けになりますように
アーメン