アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、
「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。
「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と答えた。
そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
その人々は、みなで十二人ほどであった。 (使徒19:1~7)
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 (使徒1:8)
キリストを信じると言う人たちが、聖霊をうけた場合、何らかの内的変化がその人の内側に起こる。しかし、今は、聖霊のバプテスマを受けても、一世紀当時のように異言を語ったり預言をしたりはしないでしょう。今の時代のある宗派の人たちがいう異言は当時のものとは違うものです。たぶん使徒たちが去ったあとは、こうした劇的な変化がおこることはないと思われます。しかし内的変化は今でも起こるのです。
人を新しく生かす神の命のちから
愛においてキリストと共に死に、霊的にキリストの命の復活にあずかった者は、キリストの命の泉が内側から湧き上がります。人により感じ方は異なりますが、何らかの内側の変化を感じた人はその後、キリストを隣人に伝えるように変化させられます。しかし御霊の働きにはさまざまあります。この内側でおこる霊的体験により、信者の命はすでに父なる神の中にあることがわかるのです。このことは信者のいのちは神のものであり信者自身ものではないことを意味します。キリストの命の泉(御霊)がそれを証明しています。これにより信者は厄介な自分自身から解放され喜びに満たされます。もちろんあいかわらず、人生でのさまざまな苦しみを体験しますが、栄光の神が共にいてくださるようになります。だれでも、主のみことばを守るなら、父なる神とキリスト・イエスは信者のもとへ来てくださり、一緒に住んでくださる。と主イエスは約束されました。神は全知全能である方なので、ふさわしい者の額に今、印を付けられておられますが、救われる人たちの数が満たされた時に終了します。この印は聖霊のバプテスマです。主のみことばを守るならとイエスは言われています。つまり守らなければ受けられないのです。キリストとつながって初めて、救われます。キリスト教会世界の人たちのいう信じた瞬間ではありません。たぶん勘違いされているのでしょう。イエスと一緒に過ごした弟子たちも、イエスの昇天後、10日経過してから受けたのです。かれらは、聖霊を受ける前には疑いもあり、復活の証人として殉教するほどの力はまだ受けていなかったのです。現代においてイエスを宣教している方たちはすでに受けており、宣教していない人たちは、本人たちが感じているように、御霊を受けていないのです。よってまだ救われていません。教会員になったからなど関係ありません。教会で説教を聞き、教会の仕事をし、献金することは、宣教活動をするというもっとも大切な神の御心を怠っているため、何の意味もありません。彼らは救われてもいません。神に従う者に神は御霊を与えるのです。つまり、イエスの復活を隣人に伝えることです。弟子たちが命をかけて行なったことです。聞いてるだけですか?何もしない?これにより、彼らが御霊を受けていない証拠になるのです。信じた瞬間に御霊を受ける?大ウソです。彼らは信じていないのです。信じることは行なうことです。行なわないわけにはいかなくなるのです。これが御霊の働きです。この働きは止められないのです。この真理を理解しましょう。しかし、こんなに御霊を願ってもダメなんだと、あきらめてしまわないように。わたしは言います。あなたの願いが天に届くまで、信仰により求め続けなさい。そしてみことばに従いなさい。イエスが求め続けるように言われたではありませんか。イエスに従うように命じられたではありませんか。