フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

狭い門とは?

十字架のことです。入ろうと努めながら入れない者が多いとイエスさまが言われたのもうなずけます。十字架を通って神の国へ行くのです。肉の働きを殺すのです。こうして死ねばあなたは御霊のバプテスマを受け復活するのです。しかし、無理でしょう。もし、聖くあって愛の人に本気でなりたいなら、血に至るまで罪に抵抗しなければなりません。わたしは子に自由にしていただきました。罪を犯せなくなったのです。パウロやペテロ、ヨハネの気持ちがよくわかります。手紙を書いているときは、彼らは、喜びに満たされていました。真の聖徒への祝福と偽りの教師に対する警告を彼らは必ず書いていました。十字架のイエスさまを信じることは、罪に勝利して生きることだとどうしてわからないのですか?神学校を出た牧師たちは、本当のことを体験していないことが何故分からないのですか?なぜ、何度も同じことを言わせるのですか?あなたがたは、聖書を調べていますが、わたしはこの世界に、聖書の世界から出てきてしまったのです。御霊をもっていなければ、御霊によって生きるようにパウロが言ったようには生きられません。一般の人たちは、この世の霊と肉に支配されて生きていますが、子に自由にされた人は、御霊に支配されて生きているために、決して罪に定められることはないのです。完全に自由なのです。ただ、祈っていれば、御霊が受けられると思いますか?そう教える人は偽り者です。自分で形作った妄想をまず、あなたが破壊するのです。罪を止めて苦しむのです。こうして罪から逃れた者に神は御霊を望む者に与えます。必ず御霊を受けるかどうか、現代では分かりません。もしかしたら、火のために不信仰の者たちは滅びの日まで閉じ込められていることも考えられます。イエスさまが終わりの日はちょうどノアの日のようだと言われていますから。罪を赦されて生きるのではなく、罪に勝利して生きる者が神の国へ入るのです。イエスさまが十字架で死なれ復活されたように、あなたも十字架で死ななければ復活しません。復活とは御霊を受け、新しくされることです。アーメン。