人間は本来、神のために生きるように、創造された。これが、人間の存在の理由である。
勘違いしてはいけない。人間のために神がおられるのではなく、神は人間をご自分ために、創造された。
旧約時代の動物の犠牲は、神のためであった。とすると、イエスさまの十字架での死と三日目の復活も、神のためである。
勘違いしてはいけない。主イエスの十字架はわたしたちの罪のためであっただけで終わってはいけない。
神のためにイエスは死なれた。人間が罪から解放されるのは、神のためである。人間が、神に対して生きるためと書いてあるではないか。
神ご自身がそう言われている。罪を十字架で罰したのは、義なる神のため。
人間を聖くするのも、神のため。救いは神にかかっているとは、神が救われる者をお選びになるということ。つくられた者が、つくった方に文句は言えないとパウロは手紙に書いている。
御霊を受けた者は、神の愛を知っている。イエスに忠実に生きられるのなら、自分の命を救おうとは思わない。たとえ、殉教しようと神の栄光のために生き、死ねるなら、これほど名誉なことはない。
この段階の信仰と愛に成長したなら、この意味がイエスさまが言っていることと同じだということが分かる。パウロの信仰もこれと同じです。これは、そうか、そうしようでは、出来ない。
以下に書かれている神のみこころがわかりますか?御霊を受けていれば、アーメンといえます。
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
(マタイ7:13~14)
22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
(マタイ7:22~27)
14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。
(マタイ22:14)
人間のために神がおられるのではない
すべては神の栄光のために、人間はそのために創造された
アーメン