フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

主イエスは「神の愛」そのもの

神の愛だけが、人を罪から遠ざけることが出来ます。イエスさまの内にいること、義を行うこと、神の再生する種、御霊をもつこと、水と霊によって新しく生まれること等、表現はいろいろありますが、どれも、主イエスと結びついていることを意味します。結びついている人は、罪に決して定められません。

 

完全でありたいなら、イエスさまと結びつき、神の愛を実践をしましょう。実を結べる人は、救いの条件をクリアしています。

 

神のみことばは永遠に存続すると聖書に書かれています。ペテロはこれが福音だと言います。世は過ぎ去りつつありますが、神のみことばを行う人は永遠に生きるのです。

 

これを読んでも、感動せず、ただの無反応なら、あなたの救いのチャンスはもう過ぎ去ってしまった?かも知れません。

 

そんな気がしてならないのです。そういう人は、もう、見放なされている?可能性があります。

 

本当にそうかどうかは、わかりませんが。

 

救いの日に神は救いの手を差し伸べたのです。これは、神の証しなので、真実です。

 

ただ、神のことばを聞く側の問題なのです。

 

ある人が、神の種(みことば)を蒔いて、その、みことばを聞いて「みことば」が順調に成長して多くの実を結ぶようになった人は、さいわいな人です。

 

エスさまの「種まきのたとえ」として聖書に書いてありますね。30倍、60倍、100倍になると。

 

救われた人は、地上にいても天の座に座っているようですね。

 

永遠とは例えて言えば、過ぎ去ってしまった過去も、まだ来ない未来も同時に今現在に生きているようなものです。

 

この感覚は、永遠の世界に生きている(時間の観念がない)ような感覚です。

 

過去も未来も現在に同時に存在している?のです。

 

ある宗教で、過去は打ち捨てられており、未来はまだやって来ない。だから、思い患うなと教えています。イエスさまも明日のことを思い患うなと教えていますね。

 

わたしは、思い患うことはないのです。神と共にいるからです。

 

ただ、永遠の世界とはもしかしたら、こんな感覚なのかなと思っただけです。

 

神の愛は永遠です。愛(イエス)と共にいるなら、その永遠を感じるといったところでしょうか。