1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
2 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。
(ヤコブ4:1~3)
上記はヤコブのことばですが、パウロが言う肉の働きです。この働きを殺すなら、あなた方は生きるのです。
肉欲の快楽に何の意味があるのですか?あなたはそれを制することができますか?それがどこから生じるか知っていますか?
こころからです。偽りの妄想から生じます。しかし、このことを知っていても結局、罪の強大な力に負けてしまうでしょう。釈迦は自分の意志の力でこれらを打ち負かすことを提唱しましたが、不可能なのです。
断食、難行苦行、さまざまな心理的アプローチ、どれも功を奏しません。祈りは一時的に効果がありますが、永続性がありません。そこで、多くの人は祈りをやめてしまいます。
さて、ここで、絶望する人とあきらめてしまう人がいます。あきらめてしまう人は、罪に負け続けるのです。しかし、絶望する人には、まだ望みがあります。なぜなら、その人は、罪に負けることを悲しむからです。「悲しむ人は幸いです。慰められるから」とイエスさまは言われませんでしたか?どう、慰められるのですか?恵み、慈しみ、憐れみによって「罪からの解放」を子が与えてくださるからです。罪を犯すことを当たり前と考える人、泣かない人、悲しまない人には、勝利は与えられません。真の悔い改めに至らないからです。勝利する人は、「イエスがキリストである」という信仰が必要です。行ないによるのではありません。誰も誇ることがないためです。と聖書に書かれている通りです。
子に自由にされた人はどうなるのでしょうか?
人々に、宣教するとき、『救い』とは次の状態であると教えてあげてください。
すなわち、『神に対する真の悔い改めとイエス・キリストに対する信仰によって、新生と更新の洗いを受け、新しく生まれ変わること』だと。この証明は以下の通りです。
「だれでも、キリストと結び付いた人は、決して罪に定められることはありません」
その人は御霊によって歩み、神と隣人を愛し、悪から遠ざかり、神から与えられた良い業を行うことによって律法を成就します。
これが、福音(神の力)です。
あなたも是非、世に勝利した者となってください。
聖書に書いてあることは、信ずべきことばです。『義人は信仰によって生きる』のです。
「だれでも、キリストの内にいる者は新しく造られた者です」
「すべて、善をおこなう者は神から生まれた者です」
あなたは、福音(神の力)を信じますか?
信じる人は幸いです。
ハレルヤ、アーメン。