フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

キリストに代わってお願いします 神の和解を受け入れなさい

こういうわけで、私たちは主を畏れることを知っているので、人々の説得に努めます。私たちのことは、神の前に明らかにされていますが、あなたがたの良心にも明らかになることを、私は望みます。

私たちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようとするのではありません。ただ、内面ではなく外面を誇る者たちに向かって、私たちのことを誇る機会をあなたがたに提供しようとしているのです。

私たちが正気でなかったというなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。

事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。

その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです。

それで、私たちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。かつては肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。

これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。

つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。



上記はパウロのことばです。パウロの信仰を知り、パウロのように生きる人にふさわしい手紙です。「キリストの愛が私たちを捕えて離さない」と体験したのは、パウロです。現代に生きるクリスチャンでそのように言える人は手を上げてください。パウロは次のようにも言っています。「キリストを愛さない者は呪われるがよい」こちらの方に当てはまりませんか?自分のために生きるのではなく、王であるキリストのために生きることの栄光をあなたは知りません。知らないのなら、神もキリストも実はあなたは分かっていないのです。神のために生きる機会が開けました。あなたは、この機会を宝を得るように捕えたいと思いますか?本当のところ、そう思わない人が大半でしょう。パウロの信仰はパウロの信仰。あなたは、まだ信仰をもっていません。だから、御霊を受けず、新しく生まれてもいません。罪の奴隷のままです。では、どうしたらよいのでしょう?神に従うことです。アーメン。