14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(コリン第二5:14~21)
パウロは「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」と語りました。御霊はパウロが手紙の中で「私たち」と書いている人たちに神が与えたのです。その「私たち」はキリストの使節で霊的体験をした人たちです。あなたがたとは、「私たち」ではなく、コリントの人たちです。パウロは キリストに代わって、あなたがたに願います。とコリントの人たちに語っています。
もし、神の和解を受け入れるなら、コリントの人たちもそうですが、このブログの読者も神から御霊を受けるかも知れません。「 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストが全人類の罪を受け、死なれた結果、イエスを信じる者たちを神は義とみなしてくださるのです。その証拠が御霊なのです。御霊が、あなたの信仰を神が義とみなしてくださった証拠なのです。これは、単なる概念ではありません。もし、御霊を受けていなければ、何かがおかしいのです。ただ、そうかではないのです。意味が分かりますか?あなたの信仰が認められていないのです。なぜ?神は聖なる方であるのに、あなたは、汚れから離れないからです。真実で純粋な信仰を持たない、不信心な者たちと何ら変わらない偽善者だからです。きつい言葉に耐えてください。神は、すべてをご存じなのです。人をだませても、神は騙せないことを知るべきです。悔い改める人には、御霊が与えられるはずです。そうでなければ、聖書が偽りになるからです。どちらが、偽りかは聞くまでもないことです。それは、あなたが知っています。アーメン。