フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

聖書の中でのきつい言葉は神の愛の表れ

聖書を読んでいると、少しきつい言葉に出会うことがあります。その時は、わたしたちへの「神の愛」が示されていると考えるようにしています。神の言葉に従って、もし悔い改めるならば、神はお許しになるに違いないからです。神の国が完成するまでの残された時間については「救われていく人たちのための特別な時間」だと思っています。
その救われていく人たちの数が満ち、時が満ちるまでの時間はちょうど、ノアの日の洪水前の時間と出来事に似ています。また、ソドムとゴモラの町からロトが救出された時の時間と出来事に似ています。彼らの救出のあと、突然の滅びが邪悪な人々の上にに臨みました。
聖書には今後も同様のことが起こると述べられています。そのため、すべての人たちに対し、神は「悔い改めること」「目を覚ましていて、これらのことを逃れて人の子の前に立てるよう絶えず祈っていること」を望まれています。
悔い改めとは、悪い行い、つまり闇に属する業を捨て、「神が求める良い業」をせよということです。
良い業とは、イエス・キリストをわたしたちの救い主とし受け入れ信じること。
「救いは、わたしたちの行いによらず、ただ、主イエスへの信仰による。」
わたしたちは、自分で自分を救うことは出来ず、救いは神からの賜物です。それは誰も誇ることがないためです。しかし、聖書の知識がなければ、何をどう信じ、理解したらよいのかが分かりません。
一世紀当時は神から使わされたイスラエル人のための十二使徒をはじめ、七十二人使徒、一般の信者そして異邦人のために使わされたパウロなどがおりました。彼らを神から使わされたイエスがお選びになりました。神による強力な業が行われたな時代です。一世紀当時はイエスについて知らない人はいなかったと言えます。
キリストと一緒に十字架に付けられた二人の強盗のうちの一人は悔い改めて、イエスに信仰を告白して救われました。その人は当時、イエスについてどんな方かを知っていた。だからイエスに向かって、「あなたがご自分の王国に入るときに私のことを思い出して下さい。」と言えた。
「悔い改める」こととは何か、「信じる」こととは何か、そして「永遠の命」とは何か、などを理解するために、聖書を読んで神とイエス・キリストについて知る必要があリます。
お二方への愛と信仰を持ち、兄弟愛、隣人愛を実践し、すべての人たちのために平和を求めていきましょう。
時間を買い取って、聖書を読み、祈りをし、神の言葉に従って生きていきましょう。
神の言葉は真理であり、霊であり、命です。
真理はわたしたちを罪から解放し、聖くします。この点、肉は少しも役に立ちません。聖霊の助けと導きにより、わたしたちの体を神に受け入れられる神の器として用いていただけますように。アーメン。