フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

神を信じる者は必ず救われる

神は人を救うためにイエスを地上に遣わされた。しかし信仰の無い人を救うことは出来ない。全能の神であっても出来ない。聖書で神は人間の不信仰と愛の無いことを戒められる。神に対する人間の信仰と愛が救いの条件だからだ。信仰があれば、植物を枯らすことも、山を動かすことも、針の穴にラクダを通すことも出来る。これは人間には出来ない。しかし神には出来る。救いは神にかかっている。神の御こころと人間の信仰と愛が一致しているなら、奇跡は起こる。救いは奇跡である。救われる人たちは皆、神に対する愛と信仰を持っている。この愛と信仰に御霊が働いて人は神の御こころを行なう。イエスの話を聞いているだけで、行なわないなら、その人は砂の上に家を建てた人のようだ。この人は神の御こころを行なっていない。愛と信仰に基づいた行ないに価値がある。この人は神の御こころを行なっている。神を信じない人は神の御こころを行なわない。そのために退けられる。神を信じ愛する人は神の御こころを行なう。そのために神はその人を救われる。神の御こころとは何か?真理の霊がそれを明らかにする。自分を捨てて、絶えずイエスに従ってゆきましょう。

教会と終末について

教会が今、必要と思っている方はどうぞ真理を学べる良い教会を選んで通ってください。

一世紀当時も、現在も実は背教が始まっています。黙示録では、大いなるバビロンと呼ばれ、彼女の罪にあずからないようにするために、そこから出るように聖徒に警告しています。未来です。獣が滅ぼすのですが、滅ぼすのは実際は神の御心です。恐ろしい話です。カトリックプロテスタント等、皆同じです。神父や牧師は学者から学んだことを信徒に伝えています。つまり、人間から教わった人たちです。かれらは、あなたの主にはなりえません。そのことを勘違いして、イエスを主としていない偽教師と間違った教えを何の疑問も持たずに毎週日曜日に聞いている、自称クリスチャンたちが通っているので、注意が必要です。教会の会員になっても救われません。そこでバプテスマを受けていてもです。真理を偽りと変えているからです。彼らには、真理は伝わりません。話を聞かないのです。このことで、真理の霊と偽りの霊とを見分けるのです。では、どうしますか?聖書では集まることを勧めています。しかし、使徒たちが亡くなってから、教会は完全に背教しているのです。二人以上イエスの名で集まれるのなら、それでよいのです。独房に捕まったクリスチャンは一人ですが、一人であっても神が共におられます。たとえ一人であっても、あなたが霊的に強ければ神はあなたを守ることが出来るでしょう。今の教会員は福音を伝えません。あなたは、どう伝えますか?まず、聖書を父なる神から学ぶようにしましょう。神がイエスのもとへ引き寄せてくださいます。聖句を覚えましょう。分からないことは神にお聞きしましょう。御霊があなたを導いてくださるでしょう。教会があなたの家の近くにあっても、なくても、聖書を持っているなら、祈りをしつつ、機会を作って隣人に福音を伝えていきましょう。伝えるときは、SNSを活用してみてください。学ぶ時も参考程度にSNSで牧師が語ることを聞いてみるのもよいでしょう。ただし、鵜呑みにしないことです。プロテスタントには様々な宗派があります。本当は宗派など関係ないのです。宗派があること自体、人間から学んだ証拠です。直接、神から教えてもらうことです。話は変わりますが、米国の大統領はバイデンからトランプ、そしてケネディの息子になるようですが、かれらが666になる可能性があります。世界を大きく変えるからです。彼らが、神宣言したら獣ですが、神宣言しなければ、かれら以外が獣です。しかし、獣が出てきた時点で、ほぼ救いの印は終了しています。神の印のことです。神が御使いを使って神の民の額に押す印です。入ろうとしても入れなくなるとはこのことです。すでに決定してしまうからです。神の国の到来は、人の住む全地に滅びと救いをもたらします。人の子の前にしっかり立てるよういつも祈っていましょう。

油断せずに目覚めている

私たちは、真理を学んでいても、他に注意をそらされて、いつのまにか霊的に眠ってしまう危険があります。そこで、関心を自分に向けず、神に向けるようにしましょう。 いつも油断せずに祈ることによって目覚めていましょう。自分に関心を向けた時、誘惑に陥ります。顔を神に向けるようにしましょう。

 

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。 (マタイ26:41)

 

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
その日、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」 (ルカ21:34~36)

 

神と共にいることを選びましょう。心を静かにして顔を神に向け、愛と喜びと平安を感じ取るようにしましょう。

悔い改めなければ滅びる

ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
エスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」( ルカ13:1~5)

 

神の御こころに添った悲しみは悔い改めにその人を導く。世の悲しみは死をもたらす。

世の悲しみが何であれ、それは悔い改めに導くことは出来ません。重要なのは悔い改めた者は救われるということです。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」 (コリント第二7:10)

悔い改めは人間のこころの働きで、悪を行なうこと、罪を犯すことは、神の心に痛みを与えることを知ることです。これが悔い改める理由です。「 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:5~6 )

 

 

以前にも書かせていただいた、イエスをあなたの心の中に導きいれ、イエスと親しい関係を築くことが大切です。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録3:20)

そして、心を神に向け、神の御こころを知るようにしましょう。

そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。」 (イザヤ29:13)

人間は罪を犯しますが、悔い改めるなら許されます。

姦淫をしていた女が捉えられ、イエスのもとにつれてこられた時の状況です。本来なら石打ちの刑です。 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 (ヨハネ8:11~12)

エスに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。

悔い改めるには、神に対する愛が必要です。イエスと親しい関係を築き、人の悪に対して神が心を痛めておられることを覚えておきましょう。そして隣人に、福音を伝えてゆきましょう。

「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。」 (黙示録12:17)

神の愛の律法を守り、イエスを証しすることが真のクリスチャンの生き方です。

栄光の神が私たちにサタンと世と肉に対し、勝利する力を与えてくださいますように。アーメン。

あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている

エスがペテロを叱責した言葉です。直接的にはイエスのためを思ってペテロがイエスをたしなめたことに対するやり取りですが、ここにヒントがあります。人間よりも神の御こころの方が大切なのです。(勿論、隣人を愛することは大切です。)心の中に神が住んでいる人、人より神のこと考える人、神の側に立つ人であれば、神の法と秩序が踏みにじられていることを嘆き悲しむことが出来ます。神が住んでいない人、神より人のこと考える人は「口では神を敬っていても、心は遠く離れている」と神が非難した人々のようであり、このようであってはなりません。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」この人たちは人より神のことを考え、悔い改めに至った人たちです。

主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」この後、神は、額に印のない人たちを、滅ぼす者たちに命じて、 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺され、滅ぼされました。恐らく皆、偶像礼拝をしていたと思われます。その理由を、主は「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない』と言ったからだ。」と言われました。神に背を向けている人間は愚かで神に痛みを与えています。神に痛みを与えていることを愚かな人間は知ろうとしないだけではなく、故意に悪を行ない続けるのです。悔い改めについて「神はあなた方に対して辛抱強く待っておられる。」「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」 (ペテロ第二3:9)この忍耐は、長く苦しんでおられる(long suffering 長い苦しみ)という意味です。

さて、結論です。神のことを常に思い考えましょう。昔から地上では人々により悪事が行なわれてきましたが、人ではなく、神のことを思いましょう。神のこころに痛みを与えていることを覚えておくことです。悪に関しては人間が問題であって、いずれ、神は彼らを滅ぼされます。神の痛みに思いを馳せるることができれば、あなたも嘆き悲しむことが出来ます。神の御こころを行ない、あなたとわたしの額に神の印がつけられますように。未来からのメッセージに従って。アーメン。

聖書の判断を適用する際に考えてみましょう

多数派のいわゆる、シスジェンダー異性愛者のひとたちには理解しがたい、LGBTQIA+およびXジェンンダーについて考えてみましょう。今回は、医学と聖書の基準の話です。いつもと違う話しです。

事例は4種類くらいしかないのですが、トランスジェンダーの人と、ゲイの人が亡くなった後、解剖した結果分かったことがあり、医師の見解によると、性自認については、性ホルモンが決定するのではなく、脳の赤核の大きさが自分の性自認を決定するらしい。赤核は男性のほうが女性より大きく、体が男性で性転換手術をした人は3人とも赤核が女性と同じ大きさだったという。残りのゲイの人は体が男性で赤核も男性の大きさだったという。このケースは聖書的に非である。医師が性同一性障害と診断し、性転換手術まで行なった人(約50%くらいの人たち)はおそらく、自分勝手に自分を男性或いは女性と決めているわけではなく、赤核に何らかの異常が起こっていると考えられる。このケースのみ聖書で禁じている、習慣や慣習で後天的に作られた同性愛と違うと思われる。このケース以外に、同性愛、両性愛全性愛、無性愛などがある。精神科の医師がこういう区分をしているようだ。Xジェンンダーの人たちも大きく4種類に分類されているが、おそらく聖書的に彼らの性自認は認められない。つまり、性自認は、脳の赤核が決定するため、ここに異常があれば、病気と考えられる。ソドムとゴモラの人たちとは違うようだ。彼らは獣姦なども行ない、後天的に自ら堕落した人たちである。当然聖書的に認められれない。医師の診断後、性同一性障害と診断され、性転換手術までする人は、病気であり、(一部の医師は赤核の先天的奇形と考えている)手術後、いろいろ問題を抱えることもあるが、本当の自分になれてよかったのではないだろうか。わたしは、このケースのみ、聖書の判断として可と認めたい。なんでもかんでも賛成したり、反対したりはしない。脳の赤核の大きさは本人が決めることが出来ないからだ。しかし、一般的な単純な意味での同性愛者同士の結婚は認めない。

律法を成就したイエス

エスを信じる者は死をもたらす律法から解放されました。そして神は、わたしたちの犯す罪をイエスに負わせ、御子の流された血によってすべて帳消しにして下さいました。それでイエスを信じる者は正しい者とされるのです。これは父なる神の救いの取り決めです。律法の呪いからの解放によって、永遠の命への道が開かれました。このイエスを信じる者は、罪を赦されて、永遠の命が与えられる。神と兄弟そして隣人を愛し、キリストの愛の律法を実践しましょう。隣人に福音を伝えましょう。

以下は金持ちの青年が去って行った後、弟子たちにイエスが語った言葉です。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」( マタイ19:24~26)

このイエスを信じるならば、「神にはどんなことでもできる」と言われたイエスの言葉が信じたあなたと隣人に成就します。これが神の救いの方法です。これ以外に救いはありません。イエスの名による救いを隣人に伝えていきましょう。