フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

この組織が異端である証拠

これから書くことは、他の宗教組織の批判になるため、読み飛ばしてもらっても良いと思います。
その宗教組織の考え方が、さも正しいことが書かれているように、見えるため、筆者の言いがかりとも思える言葉じりを捕らえて違うのではとの思いで書いてみました。以前の記事と重複もあり、長くなりました。

塔96 2/1 4~8ページ
救われるために何をしなければなりませんか  

このあとにこの宗派は自説を述べていますが次の 【しかし,答えはこうです。『では,何を信じなければなりませんか。イエスは実際に生きておられた,ということですか。もちろんそうです。イエスが神の子であるということですか。それは言うまでもありません。さらに,聖書はイエスを「師」,また「主」と呼んでいるのですから,イエスの教えを信じ,イエスに従順に従わなければならないのではありませんか』。一ヨハネ 13:13。マタイ16:16。】

上記に「イエスの教えを信じ」と書いてある。見過ごしがちですが、クリスチャンなら「主イエスを信じ」イエスの教えに従順に従うと書きます。また、聖書では、救われるためには、キリストの義の行ないである次の「福音の三要素」を受け入れる必要があります。

①聖書にある通りキリストは、私たちの罪のために死なれたこと、

②また、葬られたこと、

③また、聖書にある通り三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現れ、それから十二弟子に、その後で五百人以上の兄弟たちに同時にお現れになったことです。 (1コリント15:3〜5)以上の3つの要素が教えていることは、本来、罪と無関係のキリストが、十字架において、私たちの罪のために身代わりとなって神の怒りをお受けになり、死なれ、きよい血を注ぎ出されました。「血がそそぎ出されなければ、罪の赦しはない」からです。(ヘブライ9:22)
そして彼の打ち傷によって私たちはいやされました。(イザヤ:53:5)
私たち人間は自分の行いで自分を救うことは出来ません。しかし、イエス様が行われた十字架におけるこの血潮と贖いに信仰を持つならば、その信仰が神によって認められ、イエス様の義が「あなたの長い衣を子羊の血で洗って白くする」ことを意味するからです。ちなみに私たち人間の義は不潔な着物のようだといわれています。よってこの宗派の記述の「イエスの教えを信じ」、ではなく、「主イエスを信じ」と言うべきです。イエスに対する信仰が欠如しており、言葉巧みに説明をしながら、キリストを主と認めない気持ちが読み取れます。よってこの組織が反キリストをであることが分かります。

もうひとつ例をあげます。

以下に次のように記述しています。「キリスト教の信仰」を固守しなければなりません。

【クリスチャンの熱心さ わたしたちはキリスト教の信仰を固守しなければなりません。なぜなら,一部の教会やテレビの宗教番組で聞く事柄とは違って,聖書はわたしたちが離れ落ちるおそれがあると述べているからです。聖書は「まっすぐな道」を捨てたクリスチャンに言及しています。(ペテロ第二 2:1,15) 】

この宗派はキリスト教ではありません。「キリストへの信仰」を固守しなければなりません。と書くべきなのに、「キリスト教の信仰」と書きました。一見なんでもない書き方のためなるほどと、この宗派の人たちは納得して読んでしまうことでしょう。そして真実に気づかないでしょう。イエス様がこの組織では消去されていることを。キリストを心の中で主と崇めること、キリストがすべてであること、キリストにすべての宝が隠されていること、イエス・キリストの御名しか救いを得べき名は人間には与えられていないこと等を。また、父なる神が、神の子キリストに天と地のすべての権威を与え、救いと裁きの権威を与えたことは、人間が子を尊ぶためであり、父なる神の救いのご計画、御意志であることを。勿論、父なる神と主イエス・キリストを愛し信じているなら、闇の中にとどまることはせず、光の中を歩む努力をするでしょう。
自分の力では無理であっても、それを聖霊様が助けてくださるのです。神に変えていただくのです。愛と信仰があるなら、イエス様に従うでしょう。「山に逃げなさい」と言われた真のクリスチャンは行動によって西暦70年の滅びを逃れました。
信仰には行動が伴うのです。主イエスを信じて救われた人は皆、福音に従います。従うとは行動です。しかし、自分の力で行うのではなく、常に神への祈りと聖霊の導きと助けが必要となります。アーメン。