フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

神の怒りの恐怖感

本当の神からの御使いに人が出会った時、人は誰でも恐怖で震える。よく、幻でイエスさまに出会ったという人たちは、本物のイエスさまに出会ったのではない。やさしい笑顔での対応は偽りである。

 

むしろ、恐ろしさで震えると言った方があっている。ヨハネでさえ、幻でイエスさまを見て、足元に倒れて死者のようになったくらいだから。聖書を読めば、恐ろしさに震えた、という表現が書かれているが、現代人は、勿論未体験です。

 

滅ぼされる人たちは、人生で経験したことのない恐怖感に襲われるだろう。

 

「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、

山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。

御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」 (黙示6:15~17)

 

たとえば、ギャングに襲われるといった恐怖とは別の恐怖、怖さがある。この世では普通体験出来ない。ギャングに対しては、平気なふりが出来るだろう。しかし、神の怒りの怖さは逃げたくなるもので、ポーカーフェイス出来るような人はいない。それは不可能なのです。耐えられないからです。

 

逆に喜びも同じです。この世界で味わう喜びと神から来る喜びは違うものなのです。

 

いずれにせよ、怖さにせよ、喜びにせよ、体験しなければ、ただのことば遊びとなる。

 

聖書の学びもそれに似て、本当のことは体験者にしか分からない。

 

そこで、提案です。疑似体験をすることです。神の怒りの恐怖は耐えられないものです。普通の恐怖ではないから。これを疑似経験すれば、こころを入れ替えて正しく生きられるかも知れません。平気な顔は出来なくなるからです。今は平気な顔をしていて罪を犯していてもです。神を恐れることはいいことです。人を正気に出来るかも知れないからです。そうして命に入ることです。

 

アーメン。