フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

祈ることしか出来ない時がある

自分が何らかの窮地に陥っている時は、もはや祈ることしかできません。これが、イエスさまに従う最後の行ないです。信仰とは信じて行なうことです。イエスさまは多くの神の業を行われました。しかし、十字架上では祈ることしかできませんでした。もし、イエスさまが、望めば十字架から降りることはできました。父なる神もその選択をイエスさまに与えておられました。知っていましたか?しかし、ここで言いたいことは、祈りについてです。イエスと一緒に十字架につけられた強盗のうちの一人は改心して、イエスさまに、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と願いました。その結果、強盗は、イエスさまから救いの約束を得ました。これを例にとって、信じるだけでいいと教える偽教師がいます。しかし、ここで私が言いたいことは、そう言うことではないのです。祈ることしかできない時があり、その時に祈ることが大切だと言いたいのです。この強盗は、神に話しかけた。つまり祈ったのです。誰も強盗の願いが祈りであり、行ないだとは気づいていません。しかし、これが、強盗の神への祈りであるというのは、的を得ています。彼は願う(祈る)ことしかできなかった。神への話しかけは、祈りですから。祈りも信仰による神の業です。あなたが動ける時には、祈りと善を行ないましょう。義をを行う者は、神から生まれた者です。普段から祈りと神の掟(愛と神聖)を保っている人は、いつも、目を覚まして祈っていましょう。これは、イエスさまからの命令であり、これから来るすべての艱難から逃れる方法です。アーメン。