フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

主イエスを第一にする

御霊を受けたいのなら、主イエスを第一にしましょう。いつも救われた人たちはそうしたのです。勿論、神のものは神に、世のものは世に返しましょう。神の仕事と世の仕事の両方をしなければなりません。主イエスを信じるとはイエスさまに従うこと。それは悔い改めること。ただ見方を変えるだけではなく、神に対する悔い改めにふさわしい霊の実を生みだせるように祈ることが必要です。木を立派にするにはイエスさまと結び付いていなければなりません。悪い木は悪い実しかつけられません。信じると言っても何も変わらぬ自分を発見するだけです。これではだめなのです。悔い改めなければ、信じると言っても無意味です。信じる者はイエスさまが来なさいと言えばすぐに行くのです。すぐに行くから御霊を与えられるのです。なぜならその人は神の御心にふさわしいからです。ぐずぐずする者は主イエスにふさわしくありません。人間の自由意志は関係があります。金持ちの青年がイエスさまにどうしたら、永遠の命を受けることが出来るかを尋ねた時、「持ち物をみな売り払い貧しい人に分け与えなさい。そうすれば天に宝を蓄えることが出来ます。それから来てわたしに従いなさい。」と言われたために、悲しい顔をして去って行きましたが、「はい、主よ。そう致します。」と言って、直ちに持ち物を売り払い、主のもとに行けば良かったのです。そうすれば、「救いはあなたのところへきました。わたしに従って来なさい。」とイエスさまはその青年に言われたのです。その青年は求めていた永遠の命を受けたのです。イエスさまは青年の信仰を試されました。よく信仰と悔い改めは神が与えてくださるといいますが、本人が求めなければ神は与えることができません。よって、やはり、人間は神に求める必要があるのです。フェニキアの女が娘にとりついた悪霊を追い出してもらうために、イエスさまに信仰を示した時のようにです。「はい、主よ、しかし子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」あの時は、まだ異邦人宣教の前でした。イエスさまは、ユダヤ人にだけ宣教すべき時期でした。父なる神は憐れみ深い方です。