フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

一体だれが救われるのだろう?

一世紀当時、自分たちは救われるとモーセの律法にしたがっていると考えていたユダヤ人たちは考えていただろう。しかし、イエスさまは彼らは従っていないと言われた。彼らは自分たちの義で救いを得ようとし、神の義に服さなかったからだと説明されている。そして主イエスのもとへ行かなかったため、御霊を受けられなかった。現代の人たちで自分はクリスチャンだと思っている多くの人たちに真の信仰が見られず、御霊を持っていないと思われる人たちが多いのはなぜか?救われるのはその人たちではなく他の人たちではと結論せざるを得ない。パウロやペテロのいた時代のクリスチャンたちは確かに御霊を受けていたと言える証拠がある。御霊が彼らに与えられたことが明らかに分かる証拠が聖書に書かれているからだ。しかし現代ではどうだろう。御霊を持っている人は、ほとんどいないのでは?いや、本当は御霊を受けているが、生き方が変わらないだけなのかもしれない。イエスさまが当時のクリスチャンたちに言われた、「あなた方は食べ過ぎや飲みすぎ、生活上の思い煩いのためにその日が突然わなのように襲うことがないように注意しなさい。」という警告だが、クリスチャンが食べ過ぎ、飲みすぎなどをするのだろうか?これは貪欲であり肉の業ではないか。御霊を持っていてもこうなのか?みことばはある程度、知っている必要があるけれど、少ない言葉しか知らなくても、子供のように素直で自分を低くする人が選ばれて御霊を受けるのではないだろうか?御霊についてはパウロがよく語っている。彼はイエスさまが選んだ宣教者だ。一世紀当時の他の多くのクリスチャンはどうだろう?実は、わたしたちとたいして変わらなかったかも知れない。神のみこころは人が悔い改めて、謙遜で自分を低くすること。(こういう人たちはイエスに従う)。そして神を愛し、隣人を愛すること。そうすれば、小さな者に愛を示せる人になれるかもしれない。イエスさまが言われた「わたしに対してしたのです。」といわれた、いわゆる祝福された羊である。ヤギは高慢で愛がない人たちと考えられる。彼らはイエスの名において多くの業を行なったと言うが、イエスさまに退けられる。学者や宗教指導者たち、偽教師たちは聖書の知識をもち努力したけれど、意味を曲解する人たち。毒麦は愛のないクリスチャンたち。主は「選ばれた者たちのためにその日を短くされた。」と言われた。では、だれが、選ばれた者たちなのか?十字架での神の愛を信じ、神の掟を守り、イエスのあかしを保つ人たち。つまり「神を愛し、隣人を愛し、イエスの教えを守り、自分を低くする人たち」。彼らを神はお選びになる。アーメン。