フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

自分らしく自由に生きよう

これはクリスチャンの奥義です。キリストを信じていない人だと、こう考えるでしょう。「神に背を向けて闇の中を肉に従って放縦に生き、何でもかんでも自分の好き勝手に生きようと。」これが世の人たちの考える自分らしく生きるということです。しかし、キリストによる命をもたらす、霊の法則によって罪と死との法則から、自由にされた人の心には、神の律法が書き記されており、その人の心にある願いは再び罪の奴隷になって生きることは真っ平御免なので、神の御心に素直に従って生きたいという切なる願いがあります。それが自分らしく生きることです。キリストに従うことが、自分らしく生きることです。神の御霊が自由を与えたからです。これは奥義です。義を愛し不法を憎むことは御霊の本姓ですから、キリストと一体になっている人はキリストによって自由に生きられるのです。ですから、パウロが肉の業として手紙に書いてあることは、自由にされた人にとっては全く不自然な生き方なのです。自分らしくないのです。神に自由にされた人には、もはや「神を知れ。」などと言う必要はありません。罪と戦うことはまだ自由を得ていない状態です。戦うまでもないのです。御霊が勝利するからです。ところで聖書には、人間に隠されている奥義があります。その奥義の存在によって神の救いのご計画は誰にも止められず、絶対に成就するものだという確信が与えられました。黙示録に書かれている「信頼すべきもの」と神が言われたことは、真実です。聖書の記述には人間や御使いには隠されているものがあります。たとえば、主イエスの十字架での死と復活です。当時、父なる神とキリスト・イエスだけがその意味を知っていました。後に御霊を与えられた使徒たちの手紙によって神は私たちに十字架の意味を明らかにされました。それゆえ神の救いは何者にも妨げられず絶対に成就するのです。聖書の中に書かれている預言に関しても、通常隠されています。文脈から調べても、語源から調べても真理の霊をもっていなければ、人間には分からないのです。さて、「自分らしく自由に生きる」ということは、体験してみなければ分かりません。誤解を受けやすい言葉であると同時に非常に魅力的な響きを持った言葉です。キリストの心地よい、くびきを一緒に負いつつ、キリストから学び、従うことで、キリストとひとつになる体験を言います。これは神体験と言えます。ある宗派が言う、聖霊バプテスマを受け、異言を語れるようになったと主張している人達のものとは違います。彼らは、占いの霊につかれている人たちに似ています。ある人達は神からの声を聞いたと信じ、霊能者のように人の未来を占ったり、霊が見えたり、悪霊を追い出したり、病を癒したりします。これを聞いて、イエスが言われた「主よ、主よ。」という人たちのことを思い出しませんか?彼らは聖書の言葉を語ります。しかし、真理の霊はもっていません。肉の業を行っています。彼らは宣教さえしますが、肉の業をやめません。イエスの名により、多くの業を成し遂げたと思っていますが、将来、主イエスは彼らを退けます。なぜなら、彼らの誇り、彼らが神からと思っている偽りの霊(悪霊)と関わっていたからです。アーメン。