フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

自分の命より大切な神の言葉

主イエスを信じる人は聖書に書かれている神の言葉を守る。信じると言いながら守らないなら、その人は偽り者である。結婚をしている人で世界を飛びまわって宣教をしていた人がいた。しかし、その人は、宣教をしながら、何十年にも渡って姦淫を行っていたそうだ。こういう人は偽り者である。信じたその人に良い変化が起こらなければ、それは信仰ではない。信じたから救われたと思わせること。それは悪魔の策略である。自分は信者だと思っている人たちの多くが悪魔の手に落ちている。だから、あなたは、神が用意された良い業(愛)を行ないましょう。将来、祝福された羊に対して「小さな者にしたことは、私に対してした。」と言われたイエスさまの教えに従って。あなたは自分を捨て、真理に固く付くように。イエスさまの約束はこうです。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う人は、それを見い出すであろう。」アーメン。

たとえ拷問を受け殺されようと

平和は神の義によってもたらされる。義と平和は互いに口づけする。イエスさまは神の王国と神の義をいつも第一に求めるように教えられた。神の王国はキリストの再臨の時に地上のすべての国を滅ぼし、選ばれた者たちを救うために来る。そして人手によらずに切り出された石である神の王国は永久に存続する。王国の王はキリスト・イエス。臣民はキリストと結びついて死んだ聖徒たちと携挙される聖徒たちで構成される。イエスさまと一緒に十字架に付けられたあの強盗も一緒にいる。神の国の民は現在、額に印を付けられつつある。未来に666によって殉教する人たちの数が満ちたとき、キリストは神の義と巨万の軍である聖徒たちを引き連れてやって来る。遅くなることはない。殉教を恐れる者たち、艱難前携挙を願う者たち。知れ。拷問を受け殺されるとき、神への愛が最大になることを。殺されていく者たちは、そのとき神への愛が最高になる。彼らは死に至るまで忠実であることを示す。その時、恐怖ではなく、喜びに満たされる。主である栄光の神がキリストを愛する聖徒たちによって永久に褒め称えられますように。アーメン。

神の愛を体験したいのなら

「隣人を自分自身のように愛せよ。」

 

人を愛する理由は

相手にあるのではない

神の言葉にある

 

「あなたの敵を愛し、迫害している者たちのために

祈り続けよ。」

 

神の言葉に従うとき

神の愛があなたに臨む

 

人を許すとき

あなたは神の愛を知る

 

この時

あなたは決して報復しない

栄光の神があなたと共にいてくださるから

 

アーメン

愚かな者は英知を喜ばない

人間はイエスを救い主として信じることが出来るだろうか?「信じない者は既に裁かれている。」と聖書に書かれている。既に裁かれているなら、無理なのだろうか?信じない人は、後から、信じるようにはならないのだろうか?私の経験上、信じなかった人は、信じるようにはならなかった。

 

神を侮る者たち。それは、悪魔を父とする世の不信者たち。彼らは光に近づかない。そのため自らの罪の内に滅びる。彼らに宣教し、聞かないならイエスさまは、彼らのことは放っておけと言われた。

 

わが子よ。知恵を得よ。私の心を喜ばせよ。そうすれば、私をそしる者に、私は言い返すことができよう。 (箴言27:11)

 

愚かな者は英知を喜ばない。ただ自分の意見だけを表す。 (箴言18:2)

 

神は信者に、知恵を得るようにと願われた。賢くあって神の心を喜ばせるようにと。それは、神をそしる者、すなわち悪魔に神が返答するためである。神に選ばれた者たちの使命は、悪魔が偽り者であること、イエスが道であり真理であり命であることを人々に証しすることである。私たちがそうすることで、神は悪魔に返答される。アーメン。

聖書の曲解について

ペテロがパウロの手紙には分かりにくいところがあると書いています。そして曲解によって身に滅びを招いているとしてパウロの手紙の意味を説明している個所があります。今日、これから私が書くことは、それが、聖書のどこに書いてあるかを示す参照聖句は省略します。ペテロの手紙も分かりにくいところがあります。ノアの時代の話です。イエス・キリストの復活に続いて、獄に捕えられている霊たちのところに行ったと書いています。その霊たちとは誰か?いつイエスさまは霊たちのところへ行ったのか?答えは、その霊たちとは、悪霊ではなく、当時生きていた人たちのことです。いつ行ったかは、ノアの時代にです。そこで、十字架でイエスさまが一人の強盗に言われたことで気になる点があります。これから、死んでゆく強盗に同じく私たちの罪のために死なれたイエスさまが、強盗とパラダイスにいるときはいつかです。結論は、イエスさまが将来再臨される時です。黄泉下りの話はでっち上げ、アブラハムの懐の話はたとえ話です。イエスさまは、生涯3年半、宣教しましたが、99%はたとえで教えられました。ラザロと金持ちの話もたとえです。この話の意味は、たとえ、死者の中から誰かが、金持ちの兄弟のところへ誰が行こうが、彼らは決して聞かないし信じない。つまりイエスさまを信じることはない。という意味です。どんなに詳しく説明してもです。信じない人たちに対して、驚き怪しめ、そして消え去れといことです。イエスさまが復活され、マリアがイエスさまにしがみつく場面があります。その時、イエスさまは「私にしがみつくのはやめなさい。わたしはまだ天に昇っていないからです。」と言われました。イエスさまは、三日間、墓の中にいて、眠って休んでいました。どこにもその間、行っていないのです。黄泉にも天にも。聖書では空っぽの墓を示して、イエスさまが復活されたことが分かるように聖書に記述されていますが、わたしは信仰の目によってイエスさまの御遺体が三日目に、一瞬に不滅の体に変えられたのを見ました。勿論、幻や、肉眼で見たのではありません。見ないで信じる者は幸いであるとイエスさまはトマスに言われました。だから、イエスの弟子たちがイエスの復活を実際に見て、それをたとえ殉教しようとも恐れずに伝えようとした気持ちがわかるのです。すごいこと、大変なこと、伝えないではいられない気持ちです。わたしも見たからです。ただ単に、聖書の説明をしている人たちには分からないでしょう。彼らは、皆、一様に、黄泉下りの話をして、イエスさまが悪霊たちに勝利宣言したとか、人間の霊たちに宣教したとか説明していますが、どちらも残念ながら間違っていました。聖書のどこに書いてあるかと参照聖句を示して説明していますが、曲解していることに彼らは気が付きません。分からないことを、さも分かったように教えるのは偽教師ではないでしょうか?このように解釈が異なるのは、そもそも、ペテロの手紙が分かりにくいからですが、真実を説明できる人もいるのです。この個所は長い歴史の中での論争点でありました。次に死者がどういう状態にあるかについてですが、意識がありません。霊は神が管理されています。霊がハデスにいても或いは神の中に隠されていようとです。第一の復活の時に朽ちない体を神から与えられたときに意識を持ちます。神に起こされた時です。それまでは、眠った状態です。ゲヘナつまり、第二の死はこの第一の復活を受けた人たちには何の力もありませんが、白い御座で裁かれるために復活した不義者の場合、不滅の体は受けていません。従って、命の書にその名がなければ、ゲヘナに投げ込まれ、消滅します。第一の復活の体とは違うからです。ここで、多くの指導者たちは、地獄で苦しむ死者の話をしています。イエスさまはたとえで教えられたのではありませんか?燃える火で永遠に苦しむ。これはたとえです。本当だとしたら、サディストです。また公正でもありません。70年か80年の人生に対して、永遠の苦しみを与える。神は親の善を子に千代まで及ぼされますが、親の悪に対しては二代、三代までで終わりです。ハデス(墓)をゲヘナに投げ込んだ後は、ゲヘナというゴミ箱も消滅させることでしょう。美しい新天新地には義と平和と喜びが存在します。ゴミ箱は不要です。アーメン。

御霊によって生きるとは?

知識が沢山あるから、人は頑張ろうと考える。頑張る人は真面目です。知識がなければ、頑張りたくても出来ません。しかし、頑張るのではなく、クリスチャンは「御霊によって生きなさい。」という教えは、自分を神にお任せして生きる生き方のこと。人間には未来がどうなるかが分からない。だから、自分を神にお任せする。それが、御霊によって生きるということ。知識があれば、自分で決めて生き、頑張ろうとする。しかし、その生き方は神のみこころから外れることがあります。聖書の知識をもっていても、本当のことは人間には分からない。それなのに自分で勝手に決める。栄光の神に聞き従うために、御霊にゆだねる。肉の業を避け、光の中を歩むために。すべて、義を行なう人は神から生まれた人。その人の心には、神の愛が全うしている。神が与えてくださった希望は真実。それを思うとうれしい限りです。喜びで心が躍ります。アーメン。ハレルヤ。

すべては運命だった アーメン

永遠の昔からイエスの血を振りかけられる目的で神に選ばれた人たち。主にあって喜び、踊れ。あなたがたは、多くの艱難の後、魂の救いを得るからです。神に祝福された人たち。喜び、踊れ。ハレルヤ、アーメン。