フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

聖書の曲解について

ペテロがパウロの手紙には分かりにくいところがあると書いています。そして曲解によって身に滅びを招いているとしてパウロの手紙の意味を説明している個所があります。今日、これから私が書くことは、それが、聖書のどこに書いてあるかを示す参照聖句は省略します。ペテロの手紙も分かりにくいところがあります。ノアの時代の話です。イエス・キリストの復活に続いて、獄に捕えられている霊たちのところに行ったと書いています。その霊たちとは誰か?いつイエスさまは霊たちのところへ行ったのか?答えは、その霊たちとは、悪霊ではなく、当時生きていた人たちのことです。いつ行ったかは、ノアの時代にです。そこで、十字架でイエスさまが一人の強盗に言われたことで気になる点があります。これから、死んでゆく強盗に同じく私たちの罪のために死なれたイエスさまが、強盗とパラダイスにいるときはいつかです。結論は、イエスさまが将来再臨される時です。黄泉下りの話はでっち上げ、アブラハムの懐の話はたとえ話です。イエスさまは、生涯3年半、宣教しましたが、99%はたとえで教えられました。ラザロと金持ちの話もたとえです。この話の意味は、たとえ、死者の中から誰かが、金持ちの兄弟のところへ誰が行こうが、彼らは決して聞かないし信じない。つまりイエスさまを信じることはない。という意味です。どんなに詳しく説明してもです。信じない人たちに対して、驚き怪しめ、そして消え去れといことです。イエスさまが復活され、マリアがイエスさまにしがみつく場面があります。その時、イエスさまは「私にしがみつくのはやめなさい。わたしはまだ天に昇っていないからです。」と言われました。イエスさまは、三日間、墓の中にいて、眠って休んでいました。どこにもその間、行っていないのです。黄泉にも天にも。聖書では空っぽの墓を示して、イエスさまが復活されたことが分かるように聖書に記述されていますが、わたしは信仰の目によってイエスさまの御遺体が三日目に、一瞬に不滅の体に変えられたのを見ました。勿論、幻や、肉眼で見たのではありません。見ないで信じる者は幸いであるとイエスさまはトマスに言われました。だから、イエスの弟子たちがイエスの復活を実際に見て、それをたとえ殉教しようとも恐れずに伝えようとした気持ちがわかるのです。すごいこと、大変なこと、伝えないではいられない気持ちです。わたしも見たからです。ただ単に、聖書の説明をしている人たちには分からないでしょう。彼らは、皆、一様に、黄泉下りの話をして、イエスさまが悪霊たちに勝利宣言したとか、人間の霊たちに宣教したとか説明していますが、どちらも残念ながら間違っていました。聖書のどこに書いてあるかと参照聖句を示して説明していますが、曲解していることに彼らは気が付きません。分からないことを、さも分かったように教えるのは偽教師ではないでしょうか?このように解釈が異なるのは、そもそも、ペテロの手紙が分かりにくいからですが、真実を説明できる人もいるのです。この個所は長い歴史の中での論争点でありました。次に死者がどういう状態にあるかについてですが、意識がありません。霊は神が管理されています。霊がハデスにいても或いは神の中に隠されていようとです。第一の復活の時に朽ちない体を神から与えられたときに意識を持ちます。神に起こされた時です。それまでは、眠った状態です。ゲヘナつまり、第二の死はこの第一の復活を受けた人たちには何の力もありませんが、白い御座で裁かれるために復活した不義者の場合、不滅の体は受けていません。従って、命の書にその名がなければ、ゲヘナに投げ込まれ、消滅します。第一の復活の体とは違うからです。ここで、多くの指導者たちは、地獄で苦しむ死者の話をしています。イエスさまはたとえで教えられたのではありませんか?燃える火で永遠に苦しむ。これはたとえです。本当だとしたら、サディストです。また公正でもありません。70年か80年の人生に対して、永遠の苦しみを与える。神は親の善を子に千代まで及ぼされますが、親の悪に対しては二代、三代までで終わりです。ハデス(墓)をゲヘナに投げ込んだ後は、ゲヘナというゴミ箱も消滅させることでしょう。美しい新天新地には義と平和と喜びが存在します。ゴミ箱は不要です。アーメン。