フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

あなたはイエスさまと命の木の実を食べましたか?

信仰がある人は、今からでも遅くはありません。食べましょう。見ないで信じる者は幸いであるとイエスさまは言われました。もし、すでに食べたのであれば、あなたは永遠に生きられます。神の約束を信じたからです。あなたは信仰によって救われました。アーメン。自分を信者と思っている、ほとんどの人たちは、まだ食べていません。信仰によって、自分の手を伸ばして命のパンであるイエスさまを食べ、次に命の木の実を食べます。それを父なる神は望んでおられます。この話を単なるたとえとして考えるのではなく、本当に食べることです。命のパンと命の木の実は、信者に与えられます。聖書にそう書いてあります。アーメン、ハレルヤ。

 

黙示録22:1~7

1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、

2
都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

3
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

4
神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

5
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

6
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

7
「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

 

 

ヨハネ6:48~65

 

48 わたしはいのちのパンです。

49
あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。

50
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。

51
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

52
すると、ユダヤ人たちは、「この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論しあった。

53
エスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

54
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

55
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

56
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

57
生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

58
これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

59
これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。

60
そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

61
しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。

62
それでも、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。

63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

64
しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」―イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである―

65
そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。

旧約22番目、雅歌2:2、新約22番目、Ⅱペテロ2:22

雅歌2:2

 

「おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。」

 

私たちは、いばらの中の砂漠に咲くゆりの花にたとえられています。 ここで“ゆり”といわれているのは、 私たちのことです。「おとめたちのうちに」とあるのは、もろもろの民の中で、つまり諸国の民の中にわが愛する者がある。 それは、いばらの中にゆりの花が咲いているようだとたとえられているのです。「わが愛する者」と呼んでくださるのは、栄光の神御自身です。

 

 

Ⅱペテロ2:22

 

「ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起こったことは、そのとおりである。」

 

 

世の汚れ、情欲、肉の欲望は「神の愛の御霊」により退けることが出来ます。神によって新しく生まれた者は神の愛を知っている。御霊は神の愛であり、キリストの霊です。この霊をもっている者はキリストと一つとなっています。神の愛によって人は悪から遠ざかる。信者の内に神の霊が宿っている限り、その人は肉ではなく霊の支配下にあります。人は恵みと信仰によって救われます。

天へ行く信者と不信者との違い

その人の心がどこへ向いているかがカギです。ただ信じたと思っていても、普段からその人の心がどこを向いているかで本当のことが、分かります。神は人の心をご覧になるのです。救われた人の心は愛する方へ向いています。その人の心は神に向いているのです。イエスさまに対する信仰と愛の心を御霊によってしっかり守りましょう。そして、イエスさまが差し伸べてくださった御手を掴んで、天へ引き上げてもらいましょう。あなたが、イエスさまへ手を伸ばすのです。そうすれば、その手をイエスさまがしっかり握ってくださいます。あなたもその手を離してはいけません。これで、晴れてイエスさまと関係が結ばれました。信じたけれど、何も変わっていないと思う人は、イエスさまへ手を伸ばしていなかったからです。この方法を今まで知らなかったとしても、このたとえ話でよく分ったと思います。私たちの心はいつも神に。 そうすれば、栄光の神が共にいてくださいます。ノアの時代に一人でもそういう人がいたなら、ノアの家族と共にその人は救われました。現代でも同じです。イエスさまを復活させた力強い御霊によって当時のノアが洪水前の人々に宣教したように、現代の人たちにイエスさまを証ししていきましょう。ハレルヤ、アーメン。

人間は神に救いを求め続けなければなりません

あなたが神に新しくされたら、このブログの目的は達成です。神の愛があなたにあるならあなたは神に従えるようになります。自分が新しく作り変えられるよう神に求め続けてください。あなたが求めなければ、神は与えることが出来ないからです。汚れとは神に従い得ないものです。クリスチャンの敵である「悪魔と配下の悪霊たち」は汚れた霊と呼ばれ彼らは神に従うことはできません。彼らのもつ「不従順の霊」は汚れています。この世の神、霊的闇の支配者です。「この世」もこの闇の霊に支配されており、汚れています。聖徒も含めてすべての人間の「肉」も汚れており、神に従い得ません。パウロが言っていたことです。肉とは神の霊と比較する時に使われる表現です。容易にからみつく罪がこの肉にあります。肉は何の役にも立ちません。パウロは自分の体を打ちたたいて引いて行くと述べました。これが、出来るのは神の愛の霊、キリストの霊をもっている聖徒たちだけです。主イエスは「汚れ」について、それが人の心から出て来て、人を汚すと言われました。肉の影響を受けた心の状態です。もし、神の霊が人のこころに宿っていれば、その人は肉ではなく霊の支配下にあります。肉のあらゆる汚れを遠ざけることが出来ます。この時のこころには「神の愛」があるのです。愛は光であり闇を遠ざけるのです。光と闇は決して共存出来ないからです。救いは主イエスの十字架における死と復活を信じイエスを愛することです。この救いが、父なる神の「義」であり「約束」であり「法的力」です。イエスさまがご自分の命で信じるの者の命を買い取ることで、救いが成就したのです。信じる者は主イエスにその命を買い取られ、父なる神の中に信じる者の命が隠されています。もし、信じると口先で言ったとしてもキリストの十字架に逆らって生きるなら、神を信じようとしない大多数の人たちの最終結果と同じになるのです。命が買い取られたなら、キリストの奴隷です。パウロもペテロもそうでした。この信仰と愛が父なる神のみこころです。「罪に従えば罪の奴隷。義に従えば義の奴隷」です。キリストの霊をもつ人たちが決して罪に定められないのは、汚れた肉の罪の影響を退けることが出来るからです。これが命をもたらす霊の法則が罪と死との法則からあなたを解放したという言葉の意味です。救われた人たちのこころには「神の愛」があるのです。御霊の愛です。愛は隣人に対して悪を行ないません。神の愛は情欲をもって異性を見ることをしません。世の霊、サタンの霊は人間の肉を刺激します。これらを退けるのが「御霊の愛」、「神の愛」、「キリストのこころ」です。この世に存在するものは、神に敵対する神の愛をもっていない人たちの汚れた肉から発した罪が作り上げたものです。それらは人間の肉の欲望と悪魔の意志によって作り上げられました。それらはこの闇の世において強固に守り固められています。パウロは、これらを打ち砕くために神によって強力にされた者と自らを証ししています。この悪魔の支配の状態から抜け出るためには、人間の信仰と神の憐れみと恵みが必要です。人間は神に救いを求め続けなければなりません。神によって新しく生まれる必要があります。なぜなら「この世と悪魔と肉」の力が強大だからです。ここまで聞くことができたあなたは幸いです。あとは、あなたが神に救いを求め続けるだけです。わたしはあなたに証ししました。アーメン。

コリント人への手紙 第一 15章~16章

1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

2
また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

3
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

4
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

5
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

6
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。

7
その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現われました。

8
そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

9
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

10
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

11
そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

12
ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

13
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

14
そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

15
それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活がないとしたら神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

16
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

17
そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

18
そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

19
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

20
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

21
というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりを通して来たからです。

22
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

23
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

24
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

25
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

26
最後の敵である死も滅ぼされます。

27
「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。

28
しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

29
もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。

30
また、なぜ私たちはいつも危険にさらされているのでしょうか。

31
兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。

32
もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。

33
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

34
目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。

35
ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」

36
愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。

37
あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。

38
しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。

39
すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。

40
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、

41
太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。

42
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

43
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、

44
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。

45
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

46
最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。

47
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

48
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。

49
私たちは土で造られた者のかたを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

50
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

51
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。

52
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

53
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

54
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

55
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

56
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

57
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

58
ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことをしっているのですから。

 

 

 

コリント人への手紙 第一 16章


1
さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。

2
私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

3
私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金エルサレムに届けさせましょう。

4
しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。

5
私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。

6
そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。

7
私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。

8
しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。

9
というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。

10
テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。

11
だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。

12
兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。

13
目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。

14
いっさいのことを愛をもって行いなさい。

15
兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。

16
あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。

17
ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。

18
彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。

19
アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。

20
すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。

21
パウロが、自分の手であいさつを書きます。

22
主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。

23
主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

24
私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。

コリント人への手紙 第一 13章~14章

1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

2
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。

3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

4
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

5
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、

6
不正を喜ばずに真理を喜びます。

7
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

8
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

9
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

10
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

11
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

12
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知らされているのと同じように、私も完全に知ることになります。

13
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

 

 

コリント人への手紙 第一 14章


1
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

2
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。

3
ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。

4
異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

5
私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。

6
ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。

7
笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。

8
また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。

9
それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事がどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。

10
世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。

11
それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。

12
あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

13
こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

14
もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。

15
ではどうすればよいでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。

16
そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。

17
あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。

18
私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、

19
教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。

20
兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。

21
律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」

22
それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。

23
ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。

24
しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、

25
心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。

26
兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

27
もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしないさい。

28
もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。

29
預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。

30
もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。

31
あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことでき、すべての人が勧めを受けることができるのです。

32
預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。

33
それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。聖徒たちのすべての教会で行われているように、

34
教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。

35
もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。

36
神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。

37
自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。

38
もしそれを認めないなら、その人は認められません。

39
それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。

40
ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。

コリント人への手紙 第一 12章

1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。

2
ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

3
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

4
さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

5
奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。

6
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

7
しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。

8
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

9
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

10
ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

11
しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

12
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

13
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

14
確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

15
たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

16
たとい、耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

17
もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

18
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

19
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

20
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

21
そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

22
それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

23
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさら尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官はことさらに良いかっこうになりますが、

24
かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

25
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

26
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

27
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

28
そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

29
みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。

30
みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

31
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。