フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

三位一体とは?

キリスト教世界には、父と子と聖霊に関する、三位一体の教義があり、それについての論争が昔から現在に至るまである。西暦325年のニケーア宗教会議でアタナシウス派アリウス派の教義を退けてから、次第に三位一体の哲学が固まっていった。その三位一体だがいろいろな考え方があって、それぞれについては、牧師も神父も明確に説明できないのだ。勿論、聖書にはこの言葉はなく、ただ、父と子と聖霊に関して三位一体の概念が聖書の中にあるというために聖書学者が推論して編み出した考え方だ。異端を退けるための苦しい戦いの歴史があり、そうした背景の中でそれは生まれたとのこと。神についての三位一体論は人間の理解を超えているため、結局は信じるか信じないかということのようだ。しかし信じるか否かで正統と異端に分けられてしまう。カトリックプロテスタントその他の教会で三位一体を信じるグループと三位一体を否定する異端と呼ばれている教会グループがある。一世紀当時のイエスの弟子である十二使徒たちは黙示録のなかで、十二部族を裁く王座につくことになっている。彼らは三位一体など知らなかった。これが答えだ。分からないことを敢えて分かろうとしてバプテスマ信仰告白に三位一体を無理やり信じる必要はない。霊そのものが証ししている。神さまから直接教わり、主イエスのもとへ行く。天に行くか地にいくかどちらへ行くかは分からずとも、イエスと共に歩んでいく。これが、信仰である。カトリックであれプロテスタントであれ、教会に行って説教を聞いていればよいというものではない。十二使徒の最後のひとりであるヨハネが亡くなってから、教会は背教した。カトリックカトリックから分かれたプロテスタントも。そして現在に至る。今、地上にある教会はすべて、大いなるバビロンのように思えてならない。

命を与えるのは何か? 信仰とは?  救いとは? 聖書を調べてみました

命を与えるのは「霊」である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6章63節)新共同訳

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11章1節)新改訳

わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。 (箴言8章35節)新共同訳

永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17章3節)新改訳

ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない。(使徒4章12節)新共同訳

創世記1章1節から2章2節までについて  考えてみました  

創世記には、初めに神は天と地を創造された。から始まり地球の最初の状態が、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。と書かれている。地は形がなく、何もなかった。と書いている聖書もある。その後モーセが書いたといわれる、神による、地の創造の過程が淡々と書かれ、2章2節で創造を休まれたことが分かる。神ご自身が造られたものをご覧になってそれらを良しと見られたと書いている。私の勝手な想像だが、神様は何もない暗闇の中にある地に対して、何もないところに光を、続いて何もないところに愛を、最後に何もないところに喜びをと、ご自分の気持ちを込めて、さまざまな環境や生き物を造っていったのではないかと思った。聖書に書かかれていないので、あくまでも私の想像であるが。3節に神が「光あれ」と仰せられて光ができた。と書いてあり、これが第一日目のことで、この光が太陽なのか、霊的な光なのか、人間には分からない。二つの大きな光る物と星を造られたのが弟四日目になっているからだ。記述どおり順番に創造されたならば、地球が一番古い惑星となる。なぜなら、太陽と月と星を造られたのが、第四日目になっているからだ。私、個人の考えとしては、現代科学と一致してなくても、全くかまわない。地球と宇宙は人間のために、創造されたと信じている。宇宙の星々を神が人間の及びもつかない方法で配置なさったと考えられるからだ。ところで、聖書で「光」といえば、「命」を意味しており、「闇」は「死」を意味している。創世記1章2節目以降は、闇の地球つまり、死の惑星を命の惑星に創造していく過程の記述ではないかと考えられる。第一日目の光が、命を意味していると考える人は、ネットで調べてみてもいなかった。第一日目の光についての考え方は、聖書に書かれていないため、あくまでも私の想像に過ぎない。話は変わるが、人間の心は環境や学習、健康状態で変化する。なんとなく心がすっきりしなかったり、落ち込んでいるときなどは、こんな風に考えてみてはいかかでしょうか。何もないところに光を、(ヤコブ1章17節)何もないところに愛を、(ヨハネ第一4章8節)何もないところに喜びを(ヨハネ16章24節)と。そしてもし、信仰によって心が充実してきたら、こう言ってみては。こうして父なる神は御子イエス・キリストを通して、私のポッカリと空いた心の穴を塞ぎ、「光」と「愛」と「喜び」とで満たしてくださったと。

イエスの弟子たちへの質問

マタイ16章(口語訳)
13.イエスがピリポ・カイザイリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねられて言われた「人々は人の子を誰と言っているか」。
ここで、イエスはご自分のことを「人の子」と言っています。次いで弟子たちがその質問に対し、
14.彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エイリヤと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
と答えました。イエスは再度弟子たちに質問します。
15.そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
次にある弟子がその質問に答えます。
16.シモン・ペテロが答えて言った。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
17.すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。以下略
エスはご自分についてペテロが言った「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という答えが、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。と証されました。
それはイエスが「神の子キリスト」であって「父なる唯一まことの神」ではないことをはっきりさせました。
新改訳聖書ヨハネ20章28節でトマスがイエスのことを「私の主。私の神。」と言ったときにイエスはそれを否定されませんでした。イエスに対して弟子たちがひれ伏したり、(マタイ28.17)してもそうすることをやめさせませんでした。しかし黙示録19.10でヨハネが天使に拝もうとしてひれ伏したときは、天使はやめるようにヨハネに言いました。ただ、ダニエル書2.46ではネブカドネツァルがダニエルを拝したことが書かれています。この時は、ダニエルはこのことを拒否しませんでした。このケースではネブカドネツァルはダニエルをとおしてダニエルの神に対して伏し拝んだことが分かります。
父なる神と主イエスは同じ方ではなくても、一体です。父なる神の中にイエスがおり、イエスの中に父なる神がおられるからです。学者たちのようにギリシャ語から調べたりしなくても、素直に先入観なしに聖書を読んでみることです。私自身は聖書を比較検討するために、新共同訳、口語訳、新改訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、KJV訳、NASB訳、等を使います。ネットでギリシャ語、ヘブライ語をたまに英語訳と見比べることもありますが、参考にしているだけです。イエスが神であるかどうかですが、御使いではないので、「神の子」であるため「神の子」は「神」だと思います。「神の使いたちはみな、彼を伏し拝め」ヘブライ1章6節(フランシスコ会訳)と父なる神が天使たちに仰せになったからです。

マタイによる福音書1章1節から17節にある系図について 確かめてみました

マタイによる福音書1章17節に
「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」と書いてあります。(新共同訳)
十四代十四代十四代、14という数字が3つ並んでいます。文章をよく読むと最初のグループの初めの人物はアブラハムからダビデまでで以下のようになります。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、ペレツ、ヘツロン、アラム、アミナダブ、ナフション、サルモン、ボアズ、オベド、エッサイ、ダビデ」 人物を数えると14人います。
次のグループは初めの人物はダビデから数えてバビロンの移住までとありますので、
ダビデ、ソロモン、レハブアム、アビヤ、アサ、ヨシャファト、ヨラム、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモス、ヨシヤ」 人物を数えると14人います。
最後のグループはバビロンへ移されてからキリストまでと書いてありますので、(マタイ1章12節)
「エコンヤ、シャルティエル、ゼルバベル、アビウド、エリアキム、アゾル、サドク、アキム、エリウド、エレアザル、マタン、ヤコブ、ヨセフ、イエス」 人物を数えると14人います。
つまり間違いなく、十四代十四代十四代でした。
何故、今回こんな細かいことを書いたかというと、ネット上で気になることを言っている人がいたからです。
こんなことを言っていました。
「ヴァチカンが認めている聖書の間違いとは、ヴァチカン放送(短波で放送)で聞いたのですが、マタイによる福音書の1章1節から始まる イエス・キリストの系図に間違いがあると言っておりました。」というもので、以下のように数えておりました。

アブラハム(1)イサク(2)ヤコブ(3)ユダ(4) ペレツ(5)ヘツロン(6)アラム(7)アミナダブ(8)ナフション(9)サルモン(10)ボアズ(11)オベド(12)エッサイ(13)ダビデ(14)」ソロモン(15)レハブアム(16)アビヤ(17)アサ(18)ヨシャファト(19)ヨラム(20)ウジヤ(21)ヨタム(22)アハズ(23)ヒゼキヤ(24)マナセ(25)アモス(26)ヨシヤ(27)エコンヤ(28)シャルティエル(29)ゼルバベル(30)アビウド(31)エリアキム(32)アゾル(33)サドク(34)アキム(35)エリウド(36)エリアザル(37)マタン(38)ヤコブ(39)ヨセフ(40)イエス・キリスト(41)です。
41人しかいません。よってバビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。のは間違いとなります。

しかし、文章をよく読むと真ん中の、第二グループは、ダビデからバビロンへの移住まで十四代と書いてあるので、この「ダビデ」を入れない数え方をしたための数え間違いであることが分かります。
ヴァチカンが認めているヴァチカン放送(短波で放送)を私個人は聞いていないので、そんな内容の放送が実際にあったかどうかの真偽は分かりませんが、正確に数えることで、間違いなく、十四代十四代十四代であることを確かめてみました。

フツーではうまくいかない なぜか?

人の行うことは、何にせよ、時間が経過すると共に色褪せていく。忘れ去られていく。まさに諸行無常の人生を今生きているわけです。聖書の伝道者の言葉で、1章1節から3節にこう書いてあります。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが、人に何の益になろう。これはエルサレムの王、ソロモンの言葉です。神から離れての人生には、空しさしかない。彼は、神の僕でしたが、王様でしたので、普通の人が出来ない人生を自分の望むままに手に入れることが出来ました。その結果振り返ってみるとすべてが、風を追うようなもので、財産、知恵、名声、快楽などすべてが空しいことを、悟りました。知恵を働かせつつ、冷静に愚なる行為を観察した王様です。まさにわたしたちが、一生懸命手に入れようとしたものを手に入れた王様の言葉です。聖書の伝道の書を読んでみると、確かに人生の目標として何かに向かって一生懸命生きている時には忙しすぎて、振り返る余裕はありませんが、目標を達成してしまったら、人は、また何か新しい目標を立てて生きていくことの繰り返しになります。そしていつの間にか年を重ね、昔は若かったが今は年老いたということになるわけです。結論はまことの神を恐れ、そのおきてに従うこと、それが、人の務めのすべてであるというものです。なぜなら、神は善であれ悪であれ、すべての隠されたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。と結ばれています。

聖書から得られた「救い」について まとめてみました

救いに共に召された愛する兄弟たちへ

1救いとは、闇の業から光の中へ招き入れられることです(ヨハネ8.12)。

2自分の努力は無力です(ローマ7.18)。

3主イエスを信じて頼ることで、(使徒16.31)父なる神が、主イエス・キリストを通して与えてくださる「聖霊」の助けによって、(ルカ11.13)

4永遠の命が与えられます(ローマ6.22~23)。

5神の霊が、肉と罪の支配から救ってくださり、霊の支配下に入ることができます(ローマ8.9~10)。

6この神の霊、キリストの霊が義に生きるよう私たちを助け、導いてくださいます(テモテ第二2.11)。

7決して一人ではありません(詩篇37.28)。

8父なる神の愛(ヨハネ第一4.8)と主イエス・キリストの恵みと真理(ヨハネ1.17)と、聖霊の交わり(コリント第二13.13)があなたがたと共ににありますように。

9神は私たちをキリストと共に罪に関して死に、義において、生かしてくださいました(ガラテア2.20)。

10御子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っており、(ヨハネ6.47)私たちは父なる神と主イエス・キリストに対する愛と信仰を心の中に、「キリストの霊」と共に持っています。

11この愛に加えて隣人を自分自身のように愛し(マタイ7.12)、仲間の兄弟たちを愛し(ヨハネ15.17)、すべての人に対して平和を求めます(ローマ12.18)。

12愛する兄弟たち、これらのことをずっと続けていきなさい。アーメン