1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。
(ヨハネ15:1~8)
イエスさまと良い関係があるなら、その人は良い実を結びます。
なぜなのか?考えてみてください。
もし、分からない人のためにお話ししますね。主イエスと結びついているなら、御霊の力を受けるからです。それは、上からの力です。
その力は、神からのものであって、誰も抗うことはできません。
そのため、悪い実を結ぶことができないのです。
そこで、はっきり、分かることは、もし、良い実をつけていない人がいれば、その人は、キリストと何の関係もないということです。
その人は、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
「主よ、主よ。」と呼ぶ人たちは、神のみこころ(良い実を結ぶこと)を行わなかったという理由で、将来イエスさまから、あなたがたを知らないと言われてしまうのです。
人は、「良い実か悪い実」のいずれかの実を結ぶのです。
「主よ、主よ。」と呼ぶ人たちは、自分たちは、良い実を結んだと考えているようです。
しかし、御霊によらない業(実)は肉の業であって、たとえ、イエスの名を使って、さまざま奇跡をおこなったとしても、それは、神からのものではなかったのです。はっきり言えば、心霊術、魔術のだぐいです。聖書では、それらは、肉の業に分類されています。使徒パウロは、手紙の中で「肉の働きを殺すなら、あなたがたは生きる。」と語っています。
もし、あなたが聖霊をもっているなら、この話の意味がわかります。
アーメン