フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

私たちは枝、イエスさまはぶどうの木

それでは、枝がもし実を生み出せるとしたら、その実は誰の実か?それを気づかされました。それは、人間の生み出す実ではありません。神の実でした。霊の実も光の実も。だから実を生み出せないなら、その人は、イエスさまと結びついていないことを意味していました。そうした枝は、放り出されて枯れてしまうと教えられています。だから、聞いているだけの人たちがアウトになるわけです。それで、宣教にせよ、何にせよ、生き方において実を生み出していなければ、滅びることになるのです。そこで、分かりやすく言えば、わたしたちは、キリストの種を持つ必要がある訳です。人に植える種もキリストの種です。実をつけるその実はキリストの実でした。これが命をもたらす霊の法則です。キリストの実をつける人は、決して罪に定められないと言われている理由が分かりましたか?隠されていた真実を教えていただき主よ感謝いたします。この社会でも、やる気のある人、ない人がいます。病気であれば、少ししか出来ませんが、それでも、活動すると思います。邪悪で不精な奴隷と呼ばれないうちに、こころを入れ替えましょう。これは、物語ではありません。映画でもなく、霊的な戦いです。生きるか死ぬかのです。アーメン。