フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

主は、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置く

主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。 (ペテロ第二2:9~10)

 

すべて、罪を犯し続ける不義な者どもは、懲罰のもとに置かれています。かれらは、汚れた情欲を燃やしていると書かれています。あなたが、まだこういう状態なら、不義な者どもです。しかし、この状態は救われる前の人たちも含めて、すべての人たちが経験していることです。この状態から逃れた人たちと留まる人たちに分けられています。木と実を立派にすべく、励んでください。そういう気持ちがまだ残されている人だけに言います。あなたが、罪から離れた時に、神はあなたを救い出すことができます。罪から離れるのは、あなたが行うのです。もし、祈るとしたら、主の愛の内に留まり、真理の内に堅く立つことができるように祈りましょう。霊と真理を持って祈ることです。そして、罪を止めるのは、神の奇跡ではなくあなたが行うのです。肉の働きを殺す。もし、殺すことができたら、あなたは、狭い門から入ることが出来たのです。この狭い門から入らなければ、救いはありません。この真理を知っているのは、真のクリスチャンです。御霊は神が望む者に与えてくださいます。御霊によって自由になった人は、神の国を待ち望みます。アーメン。

 

 

ある牧師が言っていました。修道院に入ってこれに挑戦した人たちが過去にいましたが、皆失敗したと。真面目な人がこの肉の働きを殺すことに挑んで敗れていったと。だから、初めが信仰なら、終わりも信仰だと。つまり、信仰から入って、肉の力で肉を殺そうとしても無理だから、イエスさまに戻るのだと。つまり、初めが信仰なら、終わりも信仰というわけです。肉を殺すことは神の御霊。だから、各自与えられた霊に応じて従って行けばよい。という結論でした。あなたが、この説明がもっともだと思うなら、そうすればいいのです。現在多くの牧師も罪と戦うと言っています。ポルノを避けるよう頑張っている。頑張ってください。偽の多くの聖職者たちの児童の性的虐待をする者たちより、まだましです。毒麦もいつかは、神は麦に変えてくださるのだろうか?わたしのブログの主旨からは、そうかも知れないと言えます。でなければ、これほど、霊的な戦いをして、ブログに書く必要はないのです。イエスさまは、こう言っています。わたしの父が植えた木でないものは、根こぎにされると。このたとえは、御霊を与えられた人は父なる神が植えた木なのです。御霊が新しい創造の力であり、命なのです。この力によってすべてのものが新しくされるのです。アーメン。