フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

イエスの名に信仰を持った後は、信者は何を行うのか?

父なる神がペテロ、ヤコブヨハネに直接語られた言葉

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。(マタイ17:5)口語訳

ペテロの言葉がまだ終らぬうちに、見よ、光る雲が彼ら(イエスモーセとエリヤと)を掩い、そのとき、「これはわたしの“最愛の子、“わたしの心にかなった。「“彼の言うことを聞け”」と言う声が雲の中から出た。(マタイ17:5)塚本訳

ペテロがなお語るうちに、見よ、光る雲が彼らをおおい、加えて雲の中から声がした、いわく、「これはわがいとし子、わが心にかなうもの、彼に耳傾けよ」と。(マタイ17:5)前田訳

ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。(マタイ17:5)新共同訳

以下はイエス様に関する預言です。

あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。 申命記(18:15)
モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』 (使徒言行録3:22~23)

エス様自身も言われたようにキリスト・イエスのすべての教えを守り行うことです。聞くだけではなく聞いて行うことです。誰が何と屁理屈を並べ立てようが、これが真実です。文字通り613あるモーセの律法はイエス様が終らせました。信じる者は正しい者とされます。割礼や贖いの捧げ物については廃止。これは分かりやすい。律法から自由になった。この意味は、たとえ多くの罪を犯しても無罪となること。しかし罪を犯してもかまわないということではありません。継続して存在している教えは新約聖書に書かれてある事柄です。信じて終わりではありません。罪をやめる必要があります。正しい生活を行う必要があります。掟は重荷では無い理由が書かれています。自分の力では誰も行えません。新しく生まれること。神から生まれた者。キリストの霊の力が必要です。終わりの日に不法(罪)を行う者に対して離れ去るように宣告される人たちは、この点が分かっていません。勿論、神と隣人を愛することですが、神の霊が宿っていなければ何を言われても出来ないのです。そこで、信仰によってイエス様にしがみついて、罪から自由にしていただけるよう求め続けましょう。キリストの霊をいただかなければ出来ないからです。聖霊の内住という言葉があります。良く分からなければ、つまり実感していなければ、内住していないのでしょう。わたしは、神が臨在しているという言葉のほうが分かりやすい。いつも意識しています。イエス様に聞き従うのです。出来る、出来ないなどとは考えない。イエスさまに聞き従うと決めているのです。