人間のこころから人を汚す言葉が出てきます。イエスさまはパリサイ人にまず自分の内側つまりこころを清めるならばすべてが清くなると教えられました。彼らは外側を清めていましたが、彼らのこころは強欲と敵意に満ちていました。彼らは白く塗られた墓のような存在でした。神のみことばは霊であり、真理であり、命であり、聞いて従う時に人のこころは清くなります。しかし彼らは従わなかったので、彼らのこころは汚れたまま、自らの罪によって滅びました。不従順の霊によってキリストの十字架に逆らって生きているなら、彼らと同じ運命になるでしょう。生まれながらの人たちは以前のわたしたちも含めみな同じ状態です。聖書からこうした知識を得て、どうすればいいのかと考える人と無関心な人たちがいますね。無関心な人たちのことは放っておいて、イエスに従おうと願う人は、どう生きたらよいかと悩みます。聖書の知識はもっていても、なかなか実践出来ないでいますね。罪はみな犯します。犯さない人はいませんが、キリスト・イエスと結びついているなら罪に定められることはないと聖書に書かれています。イエスさまと結びついているなら、9つの霊の実を結ぶことが出来るので、心配はしなくてよいのです。自分が救われているかどうかはイエスさまと結びついていることを確認すればよいのです。主に従う自由意志と愛と信仰によって聖霊のバプテスマを受けるはずです。水のバプテスマではありません。これは地上の教会の信者が牧師から受けるものです。主イエスを証し神の働きをしている人はだれでもすでに受けています。異言や預言の賜物と癒し、悪霊の追い出しについては、顕著な働きはなさそうですが、少しなら出来る人もいるようです。たとえば、わたしは、異言や預言の賜物はありませんが、神により、祈りとみことばによって、苦痛が和らぐ、悪霊を退ける、邪悪な人間を退ける等を体験しています。人を許すことは自分が解放されます。どのように祈り、考えるかは人によって違うでしょう。真理の霊を受けたらみことばの理解が増し、祈りが聞かれます。自分に意識を向けず、神と隣人のことを考えましょう。ハレルヤ、アーメン。