フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

御霊そのものが真理

父なる神とキリスト・イエスを知ることが永遠の命です。

 

どういう意味か?

 

御霊をもつことが真理であり永遠の命ということです。

 

つまり、聖書の解釈云々は、御霊をもつことで終わったのです。

 

誰が正しい解釈をしているなどと各宗派に分かれることなど終りなのです。

 

意味が分かりますか?

 

新しく創造されたことが、すべてなのです。

 

御霊こそ真理そのものなのです。

 

これが、あなたがたが知っている救いです。

 

いくら、聖書の知識を知っていてもその段階ではまだ御霊を知らないのです。

 

ペテロがイエスを三度否認することになったのと同じ状態なのです。

 

666が誰かを知っていても無駄なのです。

 

聖書のあらゆる解釈などこういう意味で知る必要はなく、御霊が真理なのです。

 

あなたは、この救いの意味を知ったのです。

 

ハレルヤ。

祈ったことはすでに与えられたと信じる

あなたのこころは、今、喜びで満たされていますか?

 

なぜって、祈ったことは、与えられるのですよ。

 

何?祈っていない?

 

いや、そんなことはないと思います。

 

良かったです。

 

これで、あなたもキリストと結ばれるのですから。

 

 

行ける人は、教会へ行きましょう。

 

あなたは、訳もわからず信じている訳ではないからです。

 

まだ、教会から離れるようにという指示は出されていません。

 

教会で、神のことばがきちんと語られ、信者同志に愛がみられるならどこでも、いいと思います。

 

あなたは、すでに真理と救われる方法を知っているからです。

 

ハレルヤ。

 

あなたが新しく創造されたとき、どうなるのか

今、SNS上でキリスト教系のお話をしている人たちがたくさんいますね。かれらは聖書の解説をしていますが、霊的レベルがあまりにも初歩的で、参考にならなくなります。

 

いくら聞いても、霊的に進歩しない訳です。自分を高めているのではなく、聖書が次のように証ししていることが、あなたにも成就します。御霊を受けた者は「誰からも教わる必要はありません。」となります。

 

神の霊によって人から教わる必要はなくなるのです。霊的に引き上げられたからです。

 

新しく創造されることを祈りに含めるようにすれば、そして、それを神が聞き入れてくだされば、あなたもこの意味を体験を通して理解できます。

 

あの、ペテロのようになるということです。彼は、御霊を受けてから完全に変化してしまいましたね。

 

ああいうことが、実際に体験者に起こるのです。全く新しくなるのです。

 

これが、キリストに接ぎ木された状態です。決して罪に定められない状態になります。

 

この人たちが将来の羊です。山羊は、接ぎ木されていなかったのです。これで、「主よ、主よ。」という者が、不法(罪)を行う者として、キリストに退けられる理由がわかったでしょう。

 

「神のみこころを行う者が御国に入る。」の意味を明確に話しているのは、このブログだけです。これが、御霊によって語っている証拠です。

 

今日、語ったこの話を、自慢していると考えるなら、あなたは、神の国からは遠いのです。

 

アーメン。

神さまにお願いする祈り

それは、「わたしを新しく創造してください。」と神にお願いすることです。

 

父なる神に感謝と賛美の祈りを捧げ、の祈りもしましょう。

 

 

「水と霊によって新しく生まれること」は、救いを得るために必要なことです。

 

「信じる者の内で働く神の力」を体験してください。

 

これが、最も直接的な救いの祈りです。

 

 

こういう祈りをするなら、おそらく、神は聞いてくださいます。

 

 

「わたしを新しく創造してください。」と熱心に神に祈り、神に変えていただくのです。

 

 

そうすれば、あなたも、おそらく、ローマの百人隊長コルネリオと同じ聖霊バプテスマを受けるでしょう。

 

コルネリオは聖霊バプテスマを受けるのに、ふさわしい人だった。

 

あなたにも成就すれば、これで完了です。もし、そうならなかったら?

 

成就するまで、求め続けるのです。

 

 

聖い命の泉であり永遠の命である真理の神に栄光と誉れと威力が永遠にありますように。

 

 

アーメン。

 

ローマの百人隊長コルネリオが受けたバプテスマ

神が「異邦人を聖めた」のだという幻をペテロに見せ、御霊が異邦人が3人ペテロを訪ねて来るとペテロに伝え、それから、御使いに指示されてペテロのもとへ来た3人は、ペテロに会う。

 

ペテロの話を聞いているときに、異邦人たちは聖霊バプテスマを受けた。コルネリオの信仰が神に義とみなされたからである。

 

ペテロも、自分たちと同じ聖霊バプテスマを受けた彼らを見て、神は不公平な神ではないと語る。

 

ここで言いたいことは、信仰が神に義とみなされたときに、何が起こるかである。

 

「御霊によって、新しく創造される」ことが起こると言いたいのです。

 

このバプテスマを受ける前も、コルネリオには信仰があった。

 

しかし、重要なのは、「新しく創造されること」なのだと言いたいのです。

 

これが、真の救いだからです。

 

アーメン

命の書に名が記されている人が選ばれればいい

人間は勘違いをする。神のみこころが分かったためしがない。祈りによって人は変化しない。聖書を読むと、神とかかわった人たちが救われたようだ。だからといって、汎用性と再現性は通用しない。誰かの真似をしても、奇跡は起きない。

 

神中心だからだ。救いは、誰のためにあるのか?神のためにある。人間のため?それなら、多くの人を神は救えたはず。全知全能だから。

 

モーセパウロも同胞が救われるためなら、自分が救いを失ってもいいと本気で思ったことがあるようだが、その願いはかなえられなかった。

 

エスさまも、十字架上で彼らの罪をお赦しください、かれらは、自分が何をしているのかわからないからですと、祈ったが、その祈りは聞かれず、西暦70年に約110万人が殺された。

 

これらは、救いは神のためにある証拠である。ご自分のために、救われる人を取っておかれる。

 

ノアの時代も8人だけを選ばれた。

 

理由は本来、人は誰一人、救いに値する者がいないからである。ほかにいないため、神はだれかを選ばれるようだ。

 

何かがおかしく、何かが間違っている。人間がである。

 

これは、個人的な考えなので、間違っていることを期待するが、滅びはもう定められているのではないかということ。だから、いくら、聖書を学んでも変化しないし、祈っても変化しない。

 

信者は自分が救われることを夢見ている。だが、そうはいかない。なぜなら、イエスと結ばれていないからだ。

 

現代人は、神と会話ができない。ところが、ダビデでさえ、会話ができたようだ。

 

現代で、イエスと会話をしたという、その幻は、実は神ではない。本当はサタンであり、異言も呪文にすぎない。すべては、人間の思い込みに過ぎない。

 

いつの時代も人間の自分勝手な思い込みや意志ではなく、神のみこころがなされるのは、永遠に変わらない。

 

アーメン。

 

その日、全地の表に住むすべての人に臨むこと

25 そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、

26
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。

27
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。

28
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。

29
それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。

30
木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。

31
そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近いと知りなさい。

32
まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

33
この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

34
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

35
その日、全地の表に住むすべての人に臨むからです。

36
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

 

(ルカ21:25~36)

 

 

あなたには信仰がありますか?

 

エスさまの話を聞いて、備える人と備えない人がいますね。

 

信仰があり聞いて備える人は「備えあれば憂いなし」で賢い人にたとえられます。

 

聞いても、何も備えない人は不信仰で愚かな人にたとえられますね。

 

こういう愚かな人は「身から出た錆」とでもいうのでしょうか。突然滅びます。助かりません。

 

 

エスさまは、親切にも逃れるための助言を与えておられます。

 

「人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい」と。

 

主を信じ従う人は救われます。無視する人は滅びますが、主の裁きはいつも正しいのです。

 

主の御名を呼び求めるとは、「イエス、イエス」ではなく、キリストと結びつく祈りをすること。父なる神にお願いしてください。キリストに接ぎ木されるように。これがキリストの内にあることです。新しく創造されることです。この状態が「真の救い」「罪からの解放」です。

 

なぜなら、キリストと結びついている人は、決して罪に定められることがないからです。

 

普段から、キリストの弟子として、多くの実を結ぶことです。御霊によって歩むことです。

 

もし、結びついているなら、将来イエスさまから「あなたがたを知らない。」とは言われません。

 

義人は信仰によって生きる。しかり、アーメン。主よ、来てください。