ある暑い夏の日。駅前バスターミナルから東の海沿いへ歩いて15分ほど向かった所に小さな乾物屋がある。
そのとなりの広い敷地内にサーフィン好きの素敵な女の子の家があった。
家の近くまで行くと彼女が弾くドヴィッシーのピアノ曲が聞こえた。その家の呼び鈴を鳴らすと、花のような笑顔で彼女が出てきた。
白のワンピースに麦わら帽の彼女は小麦色に焼けた肌をしていた。
サーフィン好きといっても彼女は、実際にサーフィンは出来なかった。
「今朝は6時に起きてあなたが来るのをずっと待ってたんだから。」そういってスカートの両端を広げてバレリーナのように頭を下げた。
まるで映画のようだと僕は微笑んだ。アンドレジッドの狭き門を思わせる白のワンピースにエメラルドの首飾りを胸につけた彼女を乗せて車で1時間半ほど走った。
音楽好きな彼女がこれをかけてといって、ハイドンのセレナーデを車の中で聴いた。モーツアルトも入っていた。
彼女は、時々膝の上で一眼レフカメラでカメラマンのようにファインダーをのぞいたり、写真を撮るまねをしたりして遊んでいた。
「もうすぐ着くわ。」と一言彼女が言った。太陽がまぶしい大瀬戸海岸に着いた。
猛暑の中、人はまばらで、遠くの民家で犬がけだるく鳴いているのがかすかにきこえていた。
パラソルの中でイチゴシャーベットを食べてから40分ほど海で泳いだ。
波が来るたびにキャッキャッ言ってはしゃいでいる。浮き輪で泳ぐ彼女の傍らで僕も時々その浮き輪につかまって泳いだ。
僕は先に海から上がった。後からパラソルの中に入ってきた彼女の髪から水しずくが銀色のシートに落ちた。
シャワーを浴び新しい服に着替えてから、車を飛ばし、彼女を家へ送り届けた。
某雑誌のモデルとして2年間彼女の写真を撮ってきた。その彼女が、今度アメリカのある有名大学へ留学が決まった。
大瀬戸町の彼女に会ってからもう10年以上の歳月が経っているが、あれから一度も会ったことはなく、今後もたぶん二度と会うことはないだろう。
特に根拠の無い話し 宇宙に果てがあるか UFOと幽霊の共通点
子供のころから宇宙の話しやUFOの話し、そして幽霊の話しなどに興味があった。
証明は出来ないが、つじつまの合う結論は導き出せないかと考えていた。
い ろいろな人の考え方があり、興味の無い人もいるだろう。
逆に専門に研究している人たちも世界にはいる。
ここで書くことは、そういう人たちと論争することで はない。
ただ、生きていくうえでどうでもいい問題を考えるのが好きで、「にわとりが先か卵が先か」のように答えが通常出せないであろうことを、考えてみた だけである。
10年くらい前に、友達にこういわれたことがあった。
「もし、宇宙の果てがどうなっているのかを答えられるなら、信じてもいい」とのことで、 つまり、普通なら答えられないことを教えてくれたら、おまえを認めようということだろう。
確かにそうだ。とその時思った。宇宙の果てねえ。誰も見たことは 無い。答えられる人なんかいないなと。
天文学者は、地球から宇宙の星を観測すると、遠くの銀河や超宇宙星団などがどんどん遠ざかっていくことが分かるとい う。
しかもそのスピードは、地球から遠くへ行けば行くほど速くど遠ざかっているらしい。
そこで宇宙は膨張しているという結論になるということだ。
風船にご 飯粒をつけて、それを膨らませた例を載せている本を小学生のときに見た記憶がある。
この風船のように宇宙は膨張しているということだ。
ずっと長い間、この 風船の例から、ああそうか宇宙はこんな風に膨張しているのかと信じていた。
それなら、宇宙の果てはどうなっているのかという考えや、宇宙の外はどうなって いるのかなんてことも考えてみたくなる。
ビッグバンから始まって、宇宙は現在も膨張しているらしい。
しかし、こういう考え方もあるのではないか。つい最近 ハッとひらめいた。
実は宇宙は膨張していない。光の速度で138億光年とか160億光年といろいろな本に数字が書いてある。この数字は推測だろう。1兆光年はさすが に読んだことはないが、光の速度でたとえ10兆光年進んでも宇宙の果てにはたどりつけそうに無い。
なぜなら、宇宙には果てが無いからだ。ただ、ビッグバン 以来、星は移動しているが、それは移動しているのであって、宇宙が膨張しているでは無いということだ。
そう考えると、宇宙の果てはどうなっているのかの答 えは、宇宙には果てがない。よって見ることは出来ない。果てというものがないのだからというのが結論ではないか、とういうことだ。だから、宇宙の外の世界 もない。こう考えると私は納得できるのだ。
ただ、別世界はあるようだ。これも証明は出来ないが。この三次元宇宙の物質 はその存在位置を特定できる。しかし、UFOや幽霊などが引き起こす、瞬間移動を考えると、もしそれが、本当にそうだと仮定すると当然それらは、物質では 作られてはいないことになる。
つまり、もともとこの物質世界のものではなく、外の世界から、エネルギーとして入り込み、いろいろな姿に変化するが、この世 界にあるべき位置をもともと持っていないといえる存在だと考えられる。だから、捕まえられない。音を立てたり、目に見えたり、写真に写りはするようだが、 物質ではないため、捕らえることが出来ない。
人間を翻弄している、超越的存在のようだ。そんなものはいないんだよ、というのは確かにこの世界にはいないと いう意味で正しい。こちらからは、行くことが出来ない世界だから、あるとも無いともいえない。
しかし、別世界からは、この世界に入ったり、出たりしている ようだ。
それでは、この辺でとりとめのない、証明できない、子供のころからの疑問の勝手な謎解きは終わりにしたい。
心の中の敵と友
彼らは皆、勇敢な戦士だった。
私は彼らと戦えたことを誇りに思う。一最強戦士語録より一
こんにちは。時々思いついたことを、綴っています。
時には、格言、時には、詩といえるものを書いています。
戦った相手を丁重に扱い「人間としての誇り」を重んじることが出来る人なら、
世界で行われている残酷な戦争には決して行くことはないでしょう。
ここでは、かつて敵だった者が、味方になった時のことを想定して、それを
言葉にしてみました。
現在、戦ってはいるものの、実は互いに、心のどこかで相手を尊敬し合っている者
同士の戦いについてです。
そこで生まれる、いわゆる人間が持つことが出来る「理想の感情」
についてお話します。
「人を許すのはその人の美しさである」と書かれた本がありますが、
すべての人が持っている「心の中の敵」を滅ぼしたときにおとずれる平安は、
精神的も、身体的にも良い影響があります。
相手と出会えてよかったと思える一瞬のシーンだけを思い出して
そこだけにフォーカスして、相手に「ありがとうね!!!」と
心の中で、言ってみてください。
そのシーンをイメージして感謝してみてください。
それが、出来たなら、
「私の中のすべての敵が滅ぼされた時、彼らは皆、私の友となった」
という意味が分かるようになります。
たとえ、今日会って、明日別れる人だとしても
そして二度と会うことがないとしても、
相手を友達と考えればその人は友達なのです。
相手がそこまで思っていなくても。
人生は一期一会。出会った人との時間の長さに関わり無く
「相手を友達」と思うことで心の中の不協和音が消え、安心感が生まれます。
日本や世界中にたくさんの友達がいると思えば、たくさんの敵がいると思うより
ずっと気分良く生きられます。
何かでコンチクショウと思ったとしても・・・。
最後に囲碁に関連した
川柳をご紹介します。
「碁敵(ごかたき)は憎さも憎しなつかしし」