神は、人間の信仰を試されるからです。旧約、新約時代を通してこれは、一貫しています。
ここまで、アーメンですか?
アーメンと言えないのなら、聖書を父なる神から学んでください。もし、実行するなら、神はイエスさまのもとへ、引き寄せてくださり、主イエスは終わりの日に、命を与えてくださるでしょう。
しかし、その前に聖霊の証印が必要です。イエスを信じた人の信仰が本物かどうかを神はどうやって知るのでしょうか?アブラハムの場合、信仰は息子イサクを捧げた時です。実際はイサクは死にませんでしたが、捧げたも同然の状況でした。
「キリストに属している人」は、このブログを読んでくださっている信者の方たちには、失礼ですが、まだいないとわたしは考えています。いたら、ごめんなさい。
自分を十字架に付けられないからです。実際にやろうとした人はいますか?いなければ、祈りながら、やってみてください。あきらめてしまったクリスチャンたちは多くいると思います。
本気なら、1000回でも10000回でも肉の力で血に至るまで頑張ることです。
わたしは、ほかの牧師が言うように、初めから無理だからという言い訳は許しません。
聖書で神が命じていることを(聖なる者となりなさい)、肉の力でもいいから、愚かになってやりましょう。
「こころ」が、聖霊によってたとえ清められても、なお、生き続ける肉の存在。しぶといですね。
ここで、気づくのは、罪は「こころ」だけから、生まれる訳ではないという点です。
ここまで、経験した人はいますか?いませんね。だから、アーメンとは決して言わない。言ってほしいのですが・・・。
さて、次の段階に進みます。体の生理的欲求です。ここからは、「奥義」が必要になる段階です。
神は、人間の信仰を試されると書きました。ここまでで、人間の信仰の決意は十分固いことが、証明されたのです。信仰は義とみなされました。栄光の神が愛を伴って来られ、抱きしめてくださいます。御霊の証印を押されました。
実際のところ御霊がなければ、聖句をいくら覚えても、霊的成長はありません。
しかし、御霊があれば、主イエスの教えをすべて守れるのです。
わたしのこころは神に
神は憐れみと慈しみに富まれる方
あなたの愛はわたしの喜び
あなたご自身がわたしたちを明るく照らす真理の光です
アモレシテ ガウディウメウム
テイプスマス フルギブント ルクス ヴェリタティス
栄光と誉と威力は永遠にあなたのものです
アーメン