フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

思い通りにならないのは神も人も同じ

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 (テモテ第一2:4)

 

37エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 39言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 (マタイ23:37~39)

 

人間の人生は思い通りには行きません。それは誰でも分かっています。しかし、全能の神にも出来ないことがあります。神は人間を救おうと願っていますが、愛と信仰のない人間を救えません。人間の自由意志を尊重されるからです。人間が救いを必要とする理由は、人間の持っている罪のためです。この罪を子羊の血で清める信仰が救いなのです。罪びとは皆、本来ゲヘナへ行くべき者たちです。わたしたちはこうして、神のみこころを伝えていますが、結局、信じない人たちは救われません。その理由についてイエスさま以下のように述べました。

 

 

めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(マタイ23:37)

 

神の救いの手を無視し、払いのけるからです。応じようとしないため、根こぎにされるのです。

 

下記は愛と信仰のない人たちが将来経験することです。聖書に書かれていることは必ず実現します。

 

 

11そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。 12その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。 13また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。 14そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。 15この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。 16この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。17わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。 18王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」 19わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。 20しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 21残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19:11~21)

 

 

上記は、救われることを拒否した人たちの受ける報いです。神に対する愛と信仰がないためです。神は必ず実行されます。一方、救われる人たちもいます。その人たちは、「神の掟を守り、イエスの証を守りとおしている者」です。あなたもそのような生き方をすれば救われます。アーメン。

 

思い通りにならないのは神も人も同じ

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 (テモテ第一2:4)

 

37エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 38見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。 39言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」 (マタイ23:37~39)

 

人間の人生は思い通りには行きません。それは誰でも分かっています。しかし、全能の神にも出来ないことがあります。神は人間を救おうと願っていますが、愛と信仰のない人間を救えません。人間の自由意志を尊重されるからです。人間が救いを必要とする理由は、人間の持っている罪のためです。この罪を子羊の血で清める信仰が救いなのです。罪びとは皆、本来ゲヘナへ行くべき者たちです。わたしたちはこうして、神のみこころを伝えていますが、結局、信じない人たちは救われません。その理由についてイエスさま以下のように述べました。

 

 

めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(マタイ23:37)

 

神の救いの手を無視し、払いのけるからです。応じようとしないため、根こぎにされるのです。

 

下記は愛と信仰のない人たちが将来経験することです。聖書に書かれていることは必ず実現します。

 

 

11そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。 12その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。 13また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。 14そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。 15この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。 16この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。17わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。 18王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」 19わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。 20しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。 21残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。(黙示録19:11~21)

 

上記は、救われることを拒否した人たちの受ける報いです。神に対する愛と信仰がないためです。神は必ず実行されます。一方、救われる人たちもいます。その人たちは、「神の掟を守り、イエスの証を守りとおしている者」です。あなたもそのような生き方をすれば救われます。アーメン。

 

神のみこころ

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(ペテロ第一3:10~12)

上記は神のみこころです。あなたが世の人なら、神の言葉を軽視するでしょう。そして命を見ることはありません。神の掟を守るかどうかで、あなた自身が自分が真のクリスチャンか否かを知ることが出来ます。アーメン。

あなたは聖書も神の力も知らない

もし、真理の御霊を持っていれば誰からも「神のことば」について教わる必要はありません。「イエスを信じる者は正しい(義人)と認められる」と聖書に書いてあるから、私の言っていることは異端だと思っている人はいますか?なぜなら、行いが大切だと言っているからです。それとも、言っていることは分かる。分かるけれど出来ないんだ。こちらの方ですか?信じているのだから、救われていると信じている人よ。あなたは、神が命じている隣人愛を怠っている。業が伴わない信仰は死んでいるとヤコブははっきり証しています。業とは行いです。これで、あなたの信仰は死んでいることが分かりました。その間違った考えを捨て、神のもとへ行き、悔い改めてください。分かっているけれど、罪がどうしてもやめられないんだという人よ。性的な罪の止め方は、その邪悪なイメージから来る妄想を打ち壊せばいいのです。たとえば「女を見続けて情欲を抱く」のなら、勝手な間違った思い込みを打ち壊せばいいのです。いいですか、情欲を抱かないためには見ないようにすればいい。ということではありません。これは、罪と戦っている人です。そうではなく、たとえば、見続けても情欲を決して抱かなくなるということです。詳しく説明すると神の愛(霊)がこころに内在しているため、情欲を抱くことが不可能になります。この状態が、「罪と死との法則」から解放された状態です。こころが「命をもたらす霊の法則」によって清められた状態です。あなたは、聖書で「思いを作り直して神に変えていただく」と書いてあることを実行していないのです。だから勝利出来ないのです。両方とも人間が実行するのです。罪を止めることは、人間が行うことです。ここでも行いが出てきました。神が聖化で行うのではありません。そう教える人は偽り者です。そういう人は、死ぬまで罪を犯し続けます。聖書に書いてあります。「あなたの信仰が世に打ち勝った」と。この信仰とは何ですか?打ち勝てない人は神に止めさせてもらおうと考えますが、打ち勝った人は自分で打ち勝ちます。これが間違っている。おかしい?違います。ペテロが舟から降りてイエスのところへ向かって水の上を歩きました。歩いたのは誰ですか?ペテロが自分の足で歩いたのです。その時、神の力は働いていましたが、ペテロは疑いによって途中で沈みました。さて、結論です。罪に関しては「本人が罪を止めたいと思わない。止める気がない。」これが原因です。聖化の教理は人を欺くものです。人間が都合よく考え出したもの。この教理は人の罪を野放しにし、罪を神のせいにする、最悪の教理です。「内なる人を神が日々新しく成長させてくださる」という、パウロのことばの曲解です。アーメン。

主に従う者が救われる

誰も楽して、天国へは行けません。永遠の命は神からのプレゼントですが、場合によっては自分の命を捨てる覚悟が必要です。信じる者は自分を十字架につけ、キリストの霊を持つ。これがキリストに属する者。律法を聞くだけで坐している者は入れない。「主よ、主よ。」と言うだけの者は救われない。指導者がイエスさまの言葉を無にして教えるから、救われることがない。しかし、ある牧師は教会に行って、バプテスマを受け、献金をして教会の仕事をしていても、名目上のクリスチャンは救われていない。なぜなら、倫理的、道徳的変化がないためと指摘していましたが、全くその通りだと思います。信者は行いに変化があらわれます。行いは救いとは関係がないのではなく、行いこそ真のクリスチャンの証なのです。理解できたでしょうか?聖さ、愛、真実の信仰。これらを持って、狭められた命の道を歩む。この聖別された生き方が真のクリスチャンの生き方です。主イエスに従うなら、聖霊バプテスマを受けます。もし、あなたが今後、御霊を受けることがあれば、神に従うことは、むずかしくありません。アーメン。

 

補足

 

従うとは、律法を行なえば救われるという意味ではありません。あくまでも、主イエスを信じる者は、イエスに従うという意味です。信じる者は御霊によって律法を成就するのです。これも、信じればいいではなく、神によって備えられた良い行ないを愛と信仰を持って行なうという意味です。

「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて

11賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。

12それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。

13すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。

14神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。(伝道の書12:11~14)

 

上記はソロモンが書いたものですが、「ただひとりの牧者に由来し」と書いてあるように、イエスの霊に導かれてソロモンが編集しました。裁きの座とは、白い御座での最後の審判の裁きです。おそらく真のクリスチャンはここにはいませんが、罪を犯し続けた者はクリスチャンではありませんから、ここに立つことになると思われます。キリスト・イエスと結びつくことで、「命をもたらす霊の法則によって罪と死の法則から解放される」ことを切に祈ります。なぜなら、「決して罪に定められない」と書かれているからです。アーメン。

罪を犯しているクリスチャンはたくさんいる

その通りです。このブログはどうしたら、あなたがそうならずに済むかを書いてきました。一世紀当時と違って、信じたら聖霊が下るということは、今の時代には起こらないのです。理由は神に器として用いられてきた使徒たちが亡くなったからです。彼らは本物の聖徒です。神は彼らを本当に用いていました。しかし、現代は違います。分かっていると思います。あなたも御霊を受けていないことを。だから、宣教師であろうと誰であろうと、その人の話すことではなく、その行いをみれば、偽物だとわかると言っているのです。認めますか?そうだとすると、誰が、現代、聖霊バプテスマを受けているのかです。一人もいないわけはありません。神はどの時代にもご自分の民を持ち、誰がそうなのかをご存じだからです。あなたは、神への愛ゆえに、自分を犠牲にしてもそれを名誉なことだとして喜べますか?使徒たちがこれと同じ気持ちを持っていたのです。もし、罪を犯せなくなったら、あなたも、私たちの仲間です。アーメン。