フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

旧約聖書からだけではイエスがメシアだと分かるのは困難

ここで聖句を引用することはしませんが、ユダヤの宗教指導者たちも、一応イエスがメシアかどうか、聖書の知識から知ろうとしていたことが、分かります。彼らはメシアの到来の前に、まず「エリヤが来る」ことを知っていたため、バプテスマのヨハネに、あなたが、エリヤか?とたずねさせた場面があります。ヨハネの答えは「いいえ」だったため、彼らはイエスはメシアではないと判断した。ヨハネの格好はエリヤに似ていましたが・・・。しかし、後にイエスヨハネがエリヤだったと証しました。もし、ヨハネが自分は霊的なエリヤだとでも言っていたら、どうなっていたでしょう。イエスベツレヘムで生まれることを宗教指導者たちは知っていた。そのため、ナザレからメシアが出るはずはないと思っていた。ナタナエルも良いものがナザレから出るとは信じていませんでしたが、彼の場合、イエスに直接出会ってイエス預言者だと知り、イエスがメシアだと分かった。安息日については、宗教指導者たちは意味が分からず、神の命令として安息日を守っていた。彼らは、神から来たメシアなら、当然、安息日を重視するはずだと思い込んでいた。イエスの弟子たちも、バプテスマのヨハネもイエスがメシアだとは最初は分からなかった。ヨハネが、水でバプテスマを行って天から聖霊が下るその人がだれであっても、メシアだと神から証されていたのでイエスがメシアだと分かったが、そうでなければ、ヨハネも分からなかった。ヨハネがイエスが道を歩いているのを見つけ、バプテスマを受けた二人の弟子に彼がメシアだと教えた。そのため、その二人はヨハネを離れ、イエスについて行った。そして、後にイエスの弟子たちとなった。イエスがメシアだと二人に教えたのはバプテスマのヨハネで、ヨハネ自身は神から、だれがメシアかを聞いていた。こうして、イエスが必ず、十字架につくことになっていたのです。それが、父なる神の喜びだったのです。ついでに、イスカリオテのユダについて言えば、ユダが裏切ろうがそうでなかろうが、イエスは、必ず十字架でわたしたちの罪の身代わりとして血を流し、三日目にわたしたちの信仰を義とするために蘇ったのです。父なる神が喜んだのは、神の救いの義を信じるわたしたちが、イエスの血によって永遠の命を受けることが可能となったからです。これが神の義です。また、当時のユダヤ人たちはイエスをメシアとして受け入れることは、決してなかったのです。彼らはイエスを必ず、十字架につけて殺し、イエスは必ず、自ら十字架につく。これが、神の救いのご計画です。イエスの死と復活による救い。これを「神の義」と言います。キリスト教世界では、馴染みのない表現ですが、父なる神とキリスト・イエスが行われたことが、「神の義」なのです。この「神の義」を信じる者は救われます。「救いは、わたしたちの神にあり子羊にあります。」アーメン。