キリストを信じる弟子は、聖書で「古い人格と欲望と情欲を十字架につけたのです。」と記述されています。また「子供のようにならなければ、神の国に入れない。」ともイエスは教えてくださいました。イエスの弟子になるのを妨げているものは何ですか?それは、自己愛です。それが自分より神や隣人を愛すること、素直な気持ちを持つことなどを出来にくくしています。ハトのように純真で素直になるのは、この悪の世界では危険です。しかし神に対してはよいのです。神と隣人を愛する愛はアガペです。隣人を自分自身のように愛するようにと教えられています。しかしイエスは弟子たちにさらに上の愛である、自己犠牲の愛を教えられました。自己愛はそれを妨げています。もし、この自己愛なるものを十字架につけることが出来たなら、どうなりますか?非常に楽になります。今までの自分から自由になれます。神と隣人をもっと簡単に愛することが出来るようになります。罪から離れることも難しくありません。こころを聖くされたのなら、すべてのことが聖くなります。イエスがパリサイ人に外側ではなく内側を聖くすればすべてが聖くなると言われた通りです。彼らのこころは敵意と強欲に満ちていました。ある有名な牧師さんは子供とはつまらないものという意味だと本に書いておられました。しかし、違うのです。子供から大人は学ばねばなりません。イエスがマタイに声をかけた時、マタイは直ちにイエスに従いました。すばらしいと思いませんか?いろいろと難しくしているものは何ですか?自己愛です。これを十字架につけて滅ぼすことです。神に対する忠誠が人間には問われています。自分の命より神に忠誠を保つようにすることを妨げているその敵を滅ぼしてしまいましょう。この状態が御霊に導かれている状態です。神の霊が内に宿っているなら、肉ではなく霊の支配下にいると聖書に書いてあります。非常に楽で自由な気持ちと喜びをこころに持てますように。自分の目には見えませんが、神が臨在しておられます。聖霊が内住しイエスさまもおられます。たとえば、自分の目の前に隣人がいるとします。その間に神がおられるのです。いつでも、どこにいてもです。そのことを覚えておきましょう。すべての道において神を認めるなら神が道をまっすぐにしてくださいます。苦難にある人は神にその苦難を知っていただくようにしましょう。祈り続けるのです。願いがいつ適うかは分かりません。しかし、願ったことは適うとイエスは教えてくださいました。わたしたちは生きている限り、希望をもって祈り続けるのです。その信仰は神のみこころなら必ず適う。それが、イエスさまの約束です。