フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

聖書の表現

「信じない者はすでに裁かれている。」しかし、かつては信じなかったけれども神が悔い改めを与えて、信じるようになるかも知れません。現にそういう人たちがいました。信じないかも知れません。現にそういう人たちがいました。キリストが死なれたのは、全世界の人たちのためでもあります。神は人間の自由意志を重視されていますので、福音を聞いても信じなければ、たとえ滅びると分かっていても信じない人はそのままにしておきます。人間にキリストを信じる信仰があれば、人間は神に従うようになります。その結果、救いを得ますが、信じない人はキリストの十字架に逆らって生きるようになります。悪魔の意志に従って生きていることを本人は知りません。神に従うために真理である、みことばを知ることとみことばに従うことが救いの道です。途中で信仰の破船を経験する者もいれば、終わりまで神に忠実な者もいます。救われる者は後者です。神は愛なので忠実である限り救われますが、キリストを否めばそれで終わりです。つまり、人間の信仰による救いは最後までそれを保つ必要があるのです。最後まで保つ人あるいは保った人は、聖書では「この世界が創造される前から選ばれていた。」とか「母の胎にいるときから選ばれていた。」と表現します。離れた場合は、「主はご自分に属する者を知っておられる。」あるいは「父なる神が引き寄せてくだされない限り、イエスのもとへ来ることは出来ない。」と表現します。キリストが死を滅ぼし命と不滅をあなたが信仰によって受ける日は、その時が来れば現実となります。「すべてのことには時がある。」からです。信じる者にとっては、神の栄光は、この世の夢や栄光(パウロはそれを塵・あくたと呼んでいます)をはるかに凌駕しています。この真実(永遠の命)は最後まで信仰を保った人に与えられます。アーメン。