フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

罪から解放される方法

上記のタイトルに関心を示さない人たちは残念ながら、救われることはありません。イエスを信じない者はすでに裁かれているからです。聖書にそう書いてあります。私が裁くのではありません。まず、イエスさまにつく者は自分を十字架につける。その後、主イエスがその人に御霊を与え自由を与える。この2点です。現在、神がこの方法でご自分の民を聖別しています。額に印をつけています。神の名とイエスの名です。この人たちが御霊による罪からの解放を受けました。この人たちが救われた者です。多くを語る必要はありません。この方法を実践できるなら、あなたもわたしたちの仲間です。話が上手で世界中を飛び回って宣教している、教会で説教をしている、または聞いている、異言を語るなどは救いとは全く関係がありませんでした。何故?罪を犯していたことがアウトでした。イエスさまが「不法を行う者よ、わたしから離れ去れ。」と言われた理由が分かると思います。罪は不法であり、悪魔から出ているため、イエスさまと何の関係もなかったからです。だから、イエスさまは彼らに御霊を与えていなかったというわけです。イエスさまは、罪人のためにすでに十字架で死なれ復活されたのだから信じる者は聖書に書いてある通り、罪を犯してはならないのです。罪を犯せば、再びイエスさまを十字架につけることになるのです。これで、信じたけれど何も変わらないと言う多くのクリスチャンがいる理由が分かりました。父なる神のみこころは、ご自分の民が聖くあること。そして愛の実践者であることです。とはいえ、神は辛抱強くあなたが罪を十字架につけ、愛を実践し、キリストのようになることを待っておられます。アーメン。

 

参照聖句

 

 

18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、見栄えがとこしえにありますように。アーメン。

(テモテ第二4:18)

 

27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 (エペソ5:27)

 

パウロはテモテ第二4:18で「主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。」と証しています。また、エペソ5:27でキリストが「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため。」と述べて、主の業が「聖く傷のないものとなった」栄光の教会をご自分の前に立たせると約束されています。覚えておいてください。「聖く傷のないものとなった。」と書かれていることを。以下の黙示録にも同じ記述があります。

 

 

1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

2
また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。

3
「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

4
それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。( 黙示録7:1~4)

 

1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

2
私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。

3
彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

4
彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

5
彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。 (黙示録14:1~5)

 

 

上記で十四万四千人の人たちは、「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」と書かれていて、彼らは、私たちと同じ人間ですが、「傷のない者」と書かれています。 罪から完全に解放された状態にされました。キリストと結びついた人は、「命をもたらす霊の法則」によって「罪を犯せなくなります。」この状態が救われた状態で、本人にはすぐに分かります。これこそ、真の福音です。罪を犯せば、イエスさまがいると考える罪の奴隷の子と神の子供とされた人たちの違いがここにあるのです。信じていると思っているだけでは救われていません。福音派の教師たちは信じればいいと教えている人が多い。あなたも、本当は分かっていると思います。福音は、信じる者にとっての神の救いの力です。これは単なる言葉ではなく、また他人事でもなく、信者を本当に変えてしまう神の力です。現代にもこの奇跡はあったのです。私はこれを証ししなければなりません。聖霊バプテスマと異言は関係がありません。また、一般の「新生」と言われていることとも違います。「新生」していても罪の力と戦う必要があるからです。彼らがそう証ししています。そういう意味で新生とは本人の思い違いではないかと思います。神の力はそのようなものではなく、神が信者の罪の傷を完全に消し去ることです。こころが変えられてしまうことです。救われる人の数は144000人だけではなく、この数字は象徴です。イエスさまのご覧になるポイントがあります。聖さと愛です。御霊は自らを十字架につけた人に与えられます。ペテロやパウロが経験したことをあなたもするなら、あなたも救いを体験します。神に分け隔ては無いからです。アーメン。