フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

「イエスのあかしは預言の霊」の意味について

この表現が難しいため、どう説明しているかをネットで調べてみましたが、正解者はいませんでした。聖書の預言の言葉は個人的な解釈は出来ないからです。勿論勝手な解釈なら出来ますが・・・。説明いたします。神からの教えと預言は主イエスにまず伝えられます。だれでもわかりますね。イエスさまはそれを人間に教えられたのです。旧約時代は預言は父なる神から預言者に伝えられました。新約時代に入ってからは預言と教えは父なる神から主イエスに与えられました。イエスさまは、自分の考えを伝えたのではなく、父なる神の教えと預言を話されたのです。ここまでは聖書を読めばだれでも分かることです。問題は次の言葉です。黙示録19:10の「イエスのあかしは預言の霊です。」。この意味は黙示録は預言書であり、神からイエスさまへまず与えられました。その主イエスの証しは父なる神からのもの。父なる神からの預言の霊によるもの。だからヨハネが御使いを拝もうとした時、御使いはそれを「いけません」と止め、わたしではなく、預言をされた父なる神を崇めなさい。といいました。イエスのあかしは父なる神からのもの。父なる神から出た預言の霊によるもの。だからイエスのあかしは預言の霊なのです。「イエスのあかしを保っている」とは、イエスの弟子たちは神からの教えを保っているということです。御使いはイエスの証しつまり、父なる神からの教え、預言を守っている同じ仲間ですと言っているのです。黙示録12:17の「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」の意味は「神の戒め」と「イエスのあかし」とが二つあるのではありません。ひとつです。たとえば、人を愛し、それを保っているということです。イエスのあかしは「神の戒め」と「神の預言」なのです。ここを理解している人は一人もいません。一般にこう解釈しています。預言の霊を持たないとイエスを証し出来ないと。たとえば、主イエスが神の御子でイエスの血と名に対する信仰による救いすなわちイエスの死と復活と御国と悔い改めと御霊の約束を宣教することが「イエスのあかし」であると誤解しているのです。それは、神のみこころですが、黙示録19:10 ではそういうことを言っているのではありません。イエスを証言するなら、真理の御霊が必要です。預言の霊ではありません。あらためて確認します。神の戒めとはまず互いに愛しあうこと。それからキリストの教え(律法)です。これらを守っている者たちが悪魔の攻撃対象になります。しかし、主である栄光の神が守ってくださるので心配は無用です。たとえ死ぬことがあっても忠実であれば、髪の毛一本失われることはありません。これはイエスが言われた「あかし」です。言いかえれば、「イエスのあかし」は父なる神のおしえであり、且つ、黙示録でいう父なる神の「預言の霊」です。「髪の毛一本失われることはありません。」は預言です。必ずそうなるということです。あなたは、イエスのこの約束の言葉を信じますか?

 

参考聖句

 

17 すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。 (黙示録12:17)

 

10 そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません、私は、あなたや、イエスのあかしを保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。 (黙示録19:10)

神の戒め・おきて・命令とは

 

6 愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。 (ヨハネ第二6)新改訳二版 私たちが互いに愛し合うということです。

 

6愛とは、神のおきてに従って歩むことであり、おきてとは、あなたがたが初めから聞いているように、愛に根ざした生活をすることです。(ヨハネ第二6)フランシスコ会聖書研究書訳 みんな互いに愛し合おうということです。

 

6愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。(ヨハネ第二6)新共同訳 つまり互いに愛し合うということです。

 

6愛とは、父である神の戒めに従って生活することことであり、戒めとは、あなたがたが初めから聞いている通り、愛のうちに生活することである。(ヨハネ第二6)現代訳 私たちが互いに愛し合うということである。

 

6愛とはわれわれがいましめに従って歩むことです。いましめとは、初めからお聞きのように愛のうちに歩むことです。(ヨハネ第二6)前田護郎訳 互いに愛しましょうということです。