この人たちについては神はご自身を必ず見出せるようにしてくださるとわたしは信じています。しかし生ぬるい信仰などは主は必要としていません。口から吐き出されるだけでしょう。主にふさわしくないからです。キリスト者はキリストの兵士ですから任務を命をかけて果たします。これが真のクリスチャンです。自分の信仰が主にふさわしいかどうかを時々吟味してみましょう。こう書いても生ぬるい人は自分がそうだとは分かりません。そのため、わたしはそれを運命だと考えています。悪魔に目をくらまされ、古い人格のまま、そのこころと欲望のままに生きている状態の人です。どうしたらいいのかと考えることはありません。従ってそのまま捨てられることになります。教会にいる小麦と雑草の雑草の方です。両方とも一緒に成長します。雑草が自分がそうかもしれないと気づくことを切に願うばかりです。恐らく気づきさえすれば、本気になるでしょう。本人が本気になれば神が変えてくださるかも知れません。かも知れないと書いたのは、一生懸命、神の王国に入ろうと努めながら入れない者が多いと主は言われているからです。それほど救いは厳しいのです。召される者は多いが選ばれる者は少ないとも言われています。それでは選ばれるためにはどうしたらよいのでしょう?