聖書に書かれていないことは神は罪に問わない
人は自らの罪悪感によって聖書に明確に書かれていないことについても勝手に聖書を拡大解釈し、人や自分を罪に定める傾向があります。人に命じられている神の掟は神と隣人を愛すること。信仰によってイエスを通して無罪となること。肉の業として明記されていることは人間の自由意志と御霊の力で避けること。生理的欲求(睡眠欲、食欲、性欲等)は良いもので肉の業は悪であること。それ以外は、イエスを信じて御霊を受けているなら、罪と考えて悩むことは不要です。なぜなら、誰も出来ないことだからです。どの説教を調べてみても建前だけの話しか見つけることが出来ませんでした。次のパウロの告白は何について語っているのでしょうか?あのパウロが罪に問われるのでしょうか?パウロの言う「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」とは一体なんでしょうか?キリスト教世界の人たちが出せなかった答えをここに回答します。何のことを言っているのかは、御想像にお任せします。世界中のクリスチャンの悩みの答えがこれです。回答者たちはみな偽善者でした。自らもそして誰も出来ないことを人には分かったように、聖書から回答しますが、解決は不可能なのです。あなたは人間の教えから、また自らの罪悪感から解放されて自由になります。
ローマ7章14~25
14 わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。