フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

神はなぜ悪の存在を許されているのか?

義人の信仰による善なる業と悪人の悪なる業は両方とも各自の自由意志によるもの。まず被造物である人間や悪魔の自由意志を神は重視される。神の許可の範囲内で悪魔の願いも神は適える。ヨブの例やペテロの例がある。神はご自身の救いのご計画において両者を思いのままに用いる事が出来る。善も悪も自由にやらせて、両者の業を御心のままに用いて神のご計画を推進される。悪は悪なりに自由に悪を思う存分やらせることで返って神の役に立たせている。そういう意味で善と悪の両方を神は造られたといえる。しかも創造物は自由意志に基づき、各自の目的通りに動いている。その上で神はそれぞれの被造物の業に報いる。善には善の報いを与え、悪には悪の報いを与える。悪が神の御心を促進しても、褒美を与えることなどもちろんせず、それはただ、神の手の内に有るだけで、悪を行なった被造物にはきちんと罰を与える。悪者の存在は信者の信仰を試す目的に使われる。それは神の目的を促進させるためである。そして悪人の命は、義人の命の身代金となるために無駄なく用いられる。悪魔は千年王国の最後に使われる。信者の信仰を試すために。自由意志をもった悪者に思う存分悪を行なわせることで、返ってそれが神の役に立つことになる。そのために悪の存在を神は許しているが、目的が終了すれば神は悪を速やかに滅ぼしてしまわれる。神は全知全能ゆえにこれらを行なうことができるが、すべてのことは人間にも悪魔にも理解できない。悪の存在は神の救いの目的達成に役立つ。悪が右に行こうが左に行こうが、立ち止まろうが、這いつくばろうが、どうであれ何をしても役に立つことになる。そういう意味で悪の運命は神の御手の内に定まっている。