フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

聖書の神を信じても、行ないが伴わなければ、その信仰は無意味

御霊を受けた者なら分かることです。聖書は行ないの重要性を教えています。新約時代になってもそれは同じ。そう教えない教師は責任を負うことになる。イエス様の十字架を信じていても行ないが無ければ、その信仰は無意味。イエス様は言われました。主よ、主よ、というだけでは天の御国に入ることは出来ない。父なる神の御こころを行う者が天の御国に入ると。よって、行ないの重要性を教えない宗教指導者は偽教師である。ネットでもブログでも偽教師がすでに大勢、現れている。ほとんどの教師が偽りを教えている。神の審判は行ないによる。イエス様をたとえ信じていても行ないがなければ、無信仰と同じ。信じるだけで罪を行っても大丈夫ということは無く、不法を行う者と呼ばれることになる。聖書を読んでみればわかる。信じる者は行う者である。信じない者は行わない。良い実を生み出さない木は皆、切り倒される。父なる神が植えた木で無いものは皆、根扱ぎにされると。信じるだけで行いの伴わない人は邪悪で無精な奴隷であり神の子になっていない。613ある律法は十字架につけられた。その意味は律法を行って救われるのではない。イエス様を信じてそれで終わりということでもない。神に対してよい行ないをするために生きるということ。御霊を受けていれば人から教えてもらわなくても分かること。御霊を受けていれば、愛のともなった信仰による業を行うからです。真理の霊が聖書でそう教えています。人間の教え(偽教師)を捨てて、真理に従いましょう。御霊を受けていない偽教師が多すぎる。教えてはいても悪い実を生み出しています。彼らは、聖徒ではありません。聖徒は以下のように教えます。
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」
ヤコブ1:22)