フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

火の燃える池とは

私たちの主であるイエス・キリストの十字架での死と復活から約3年半後にステファノが殉教した。
この時サウロはステファノの死を良しと考えていた。サウロは熱心ではあるが誤った信仰からクリスチャンへの迫害を行っていた。が、ダマスコの近くに来たとき、突然、イエス様と出会うことになる。その後、名をサウロからパウロへと変え、キリストを宣べ伝える熱心な信者となる。イエス様の昇天後、「イエス・キリストが直接、人間と接触されたのはパウロのみ」である。ヨハネがパトモス島で黙示録を記述した時には神からイエス・キリストイエス・キリストから御使いを通して使徒ヨハネに神の幻と言葉が伝えられた。ヨハネは二度礼拝しようとしたが、神を礼拝するようにと御使いから警告を受けている。イエス様の昇天後、使徒ヨハネでさえイエス・キリストと直接、接触はしていなかった。
さて、イエス様と出会い地獄へ案内されたり、地獄から助け出された体験をしたという人たちがいる。おそらく彼らは実際にその幻を体験をしたのだろう。しかし、前述したように、その出会った相手はイエス様ではない。内容は「地獄の体験とセット」になっている。そこには地獄で苦しむ人々の悲惨な情景が描かれている。実際にはまだ地獄は存在していないのだが・・・。多くの現代の教え手たちが、「火の燃える池」を永遠に人(獣、偽預言者、悪魔等を含む)を苦しめる場所として信者たちに話しをしている。聖書では第二の死と呼ぶ場所を。しかし第一の復活を受けた幸いな者、聖なる者たちには第二の死(火の燃える池)は何の力も無い(黙示録20:6)と聖書に記述されている。いわゆる苦しめる場所と彼らとは何の関係があろう。彼らは既に永遠の命を持っている。何の力も無いとは、つまり苦しめる場所を言っているのではなく、この火の燃える池が意味する完全な消滅は彼らには何の力も無いことを言っているのである。海もハデスも死人を出した後、ハデスと死はその第二の死である火の燃える池へ投げ込まれる。その後、「もはや死もなく」(黙示録21:4)という神の言葉通り、死は消滅している。
「最後の敵である死がのみこまれて無くなる」と預言されている(イザヤ25:8)。つまり、兄弟たち、火の燃える池(第二の死)は完全な消滅を意味しており、昼も夜も限りなく永遠に苦しめられるという表現はその完全な消滅が永遠に続くという文学的な表現である点を理解してほしい。聖絶はあっても、いわゆる人間を地獄で生きたまま苦しめさせることは「決して神の御心ではない」(ヨハネ第一4:8)。
それが、たとえ完全な消滅であっても(エゼキエル18:23)。そこでこの「永遠に苦しむ地獄があること」を幻で見させた者が誰であるかは言うまでもない。イエス様に扮して「生きたまま苦しむ地獄」を見せた者が実は悪魔からの者であることは明白である。
その地獄を文字通りの苦しむ場所だとして教えている教師たちは誰であれ、真理を偽って語る者はより重い裁きを受ける(ヤコブ3:1)と聖書が警告していることをよく心に留めておいてほしい。