フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

主を恐れて、悪から離れよ

1 わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。

2
そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。

3
恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。

4
神と人との前に好意と聡明を得よ。

5
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

6
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

7
自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。

8
それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。

 

箴言3章(1~8)

御霊によって歩む

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。



(ガラテヤ5:16~25)

聖書に照らし合わせて自分が誰だかを知る

救いはまさにこの方法でしか分からない。世の牧師の偽りの教理や自分の妄想によるものであってならない。あなたが未だに罪を犯していれば、アウトであり、神の愛により、罪から逃れたのなら、セーフである。単純にして明快な真理。毒麦が麦に変われるかが、わたしにはよくわからない。聖書には運命論に思えることが書かれていることは事実。わたしは神の憐れみに懸けている。だから、わたしはあなた方を見捨てない。たとえ昨日、今日、明日と罪にまみれていようとも、神がどのようにあなた方を救うのかを見守っていきたい。たった一人でいい。いつか、あなたに神の愛に目覚める時が来ることをわたしは、神に期待している。その人は、神のためならどんな恐ろしいことも、恐れずに生き、神の証のために喜んで死んで行く人だ。こういう人を聖書では天地が作られる前から選ばれていたという。アーメン。ハレルヤ。

真のクリスチャンの救い体験(わたしたちが体験したことです)

アーメン。

1
私たちが神の子どもと呼ばれるために、—事実、いま私たちは神の子どもです—御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

2
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

3
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

4
罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

5
キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

6
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

7
子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

8
罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

9
だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

10
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

11
互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めに聞いている教えです。

12
カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。

13
兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。

14
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

15
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

16
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

17
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

18
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

19
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。

20
たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

21
愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、

22
また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。

23
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

24
神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

 

ヨハネ第一3:1~24)

イエスの血による無罪

わたしたちはイエスさまの血によって無罪となりました。御霊の働きにより罪から解放されています。わたしたちの内に宿る神の愛がわたしたちに罪を犯させないからです。福音はすべて信じる者に救いを得させる神の力とパウロが証ししたことがわたしたちの上に成就したのです。このことにより、福音が単なることばではないことが証明されました。わたしたちはキリストの愛に取り囲まれています。神こそ賛美され崇拝されるのにふさわしい方です。すべての民はあなたのもとへ来てあなたをほめたたえるのです。アバ、父よ。アーメン。

神の愛からどんなものも引き離すことは不可能

この意味をご存知ですか?一世紀当時の弟子たちが神に対して持っていた愛は、何があっても失うことはなかったのです。どんなものも引き離すことは出来なかった。人間が愛だ、愛が大切だ、しっかり持ち続けなければいけないというのではないのです。こういう人はいつでも神を裏切りますが、パウロの言った愛はパウロの中に確かに存在していました。パウロは分かっていました。彼が持っていた神への愛は決して消えることはないと。この状態をキリストにおける神の愛から何ものも引き離せないと彼は表現しました。死に至るまで忠実であることが出来る愛は実は神がその人とともに御霊の形で存在していて、永遠にいてくださるのです。そのため、引き離すことは不可能なのです。あなたの神への愛がもしそうであれば、それは、あなたにも分かることです。あなたは、イエスの行くところならどこへでもついていくでしょう。そしてイエスさまは、あなたを命の泉へと導いて下さるでしょう。ハレルヤ、アーメン。

神は苦難から救ってくださる方

あなたが神の民であれば神は苦難からあなたを救ってくださるでしょう。その時がいつかは分からなくてもです。主を待ち望む信仰が必要です。ただ待つのではなく、自分の出来ることはすべて行ないましょう。神が行なうべきことは神が行なってくださいます。神が救ってくださるという経験をすれば、あなたの神への愛は強められると思います。この神への愛と信仰があなたの中にあれば、たとえ願いがかなえられなくても、あなたの中の神への愛と信仰は残ります。消えることはありません。キリストにおける神の愛から何ものも引き離すことは出来ないからです。このことを知っているなら、あなたは永遠の命をもっています。イエスの死と復活を信じ福音に従う人は御霊とイエスの御名によって救われているのです。神にいつも感謝しましょう。アーメン、ハレルヤ。