フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

神のみこころに添うことば

「出る月を待つべし 散る花を追うことなかれ 」 ≪希望のことば≫

 

中根東里[なかね・とうり]
(江戸中期の陽明学者、16941765

わたしの中の記憶では、「散る花を惜しむなかれ、出る月を待つべし」でした。希望をあらわしたことばです。まだ、聖書を読んだことのない頃に出会ったことばです。クリスチャンの希望は永遠の命です。そこで、この筆者の実体験とは違いますが、勝手にこう考えてみました。月は[主は救い]つまり、イエスさまです。出る月を待つ、つまり「主を待ち望め」です。散る花はこの世で体験する愛する者、その他、さまざまなものを失う悲しみや苦しみ等を表わしています。

 

「生きとし生けるものに幸あれ」 『スッタニパータ』(『ブッダのことば』)  ≪愛のことば≫

 

やさしいこころの持ち主です。この言葉は、願いを表しています。祈りかもしれません。聖書のことばから、神はすべての人に、また、動物や植物にもご自分の太陽と雨の恵みを与えておられます。まさに神は愛です。また人に対して悪に悪を返すことなく善で報いることを教えています。もし、わたしたちが、「生きとし生けるものに幸あれ」と祈るなら、神の義にかなっています。このこころは人間をはじめ動植物に対する愛です。もし、敵が飢え渇いているなら、水と食べ物を与える愛です。

 

「災い転じて福となす」「史記蘇秦伝」に出て来る、弁論家の蘇秦のことば。  ≪信仰のことば≫

 

災難や不幸を逆に利用して、いい結果に結びつけること。本来は自分の力で良い方向に変えていくという意味ですが、わたしは、まさに、神がこういう方だと知っています。神は、ご自身の救いのご計画に基づいて、すべてを良い方向へと物事を進めて行かれる方です。この神の約束を信じる人は救われます。

解決策は御霊にある

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」( 箴言16:32)ソロモンのことば。

 

仏教はキリスト教の影響を強く受けている。なぜなら、聖書と良く似た言葉を仏教聖典に見出すからだ。以下は、仏教聖典から。

 

「戦場において、数千の敵に勝つよりも、自己に勝つものこそ、最上の戦士なり。」(法句経103)

 

以下も同じ。自分のこころを治めることに言及している。聖書のことばの趣旨と違わない。古い人格と戦っている状態。聖書でも「自分のこころを守れ。」と教えている。言っていることは正しい。

 

「教えのかなめは心を修めることにある。だから、欲をおさえておのれに克つことに努めなければならない。身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、(常に無常を忘れてはならない。)もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主となれ。」釈迦のことばと思われる。

 

 

「思いを作り直して神に変えていただく。」これは、パウロが言った言葉。これは、古い人格、情欲、欲望を十字架につけること。すべて、悪は邪悪な良心から出る。これを、自分で治める。そうしたら、神があなたを御霊によって変える。仏教にはこの御霊の概念がない。だから、御霊を持っていない、クリスチャンが救われておらず、神のことばに従い得ないのと同じように、人間は仏教のことばに従うことは出来ない。仏教は人のこころを扱っている。女を見続けて情欲を抱く者は姦淫したのと同じとイエスさまは言われた。仏教もこころを清めることを教えている。しかし、それは人間にはできないこと。しかし、解決策はある。ただ一つ。それは御霊である。御霊は聖霊の油注ぎ。救いの証し。アーメン。

仏教から見た人間の生き方

以下は、わたしが書いたものではなく、抜粋文です。仏教から見たこの世に住む一般の人々の生き方です。今も昔も人間は変わらない生き物だと痛感させられました。まさに愛のない、肉の業そのものの生き方です。洪水前の人々と恐らく同じです。神に対する悔い改めが必要ですが、神を無視する彼らは滅びに向かって生きています。

 

 

抜粋文

 

 

この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。
立場の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着して憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命までも失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れはててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。
また、この世には五つの悪がある。一つには、あらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみあい、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺あざむき、互いに傷つけあい、いがみあっている。二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲をほしいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱だき、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。五つには、すべてのものは怠おこたりなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。

人は互いに敬愛し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために、互いに憎み争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、時の経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。この世の争いは、互いに害いあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらなければならない。善と悪とはそれぞれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの行為に対する責任をにない、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。
恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経へても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意に包まれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。このような人の仕業は、自然の道に逆らい、世間の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。まことに、世俗の事はあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。
このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中にあってただ悪だけを行い、善を行うことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる。煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。栄華の時勢は永続せず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。
だから、人は世俗の事を捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わなければならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。ところが、人びとは善い行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ、眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。どんなものでも永久に変わらないものはないのであるからすべてうつり変わる。ただこれについて苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪むさぼって飽きることを知らない。

あなたが御霊を受けたなら

自分が、神によって清められ罪から逃れたことを知ることになります。神の力に驚くはずです。水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。水は清めであり、霊は神の愛です。救われた人は、罪が取り除かれ、こころに神の愛が満たされるのです。これが神の力です。あなたは、召しと神の選びを受け、神の国へ行くことができます。この人は、ヨハネの手紙に書いてある通り、罪が犯せません。これが、真の救いです。これによって自分が真のクリスチャンであることが分かるのです。あなたが、そうであれば、真のクリスチャンです。このブログの目的は、聖書に書かれていることが、あなたの上に成就することです。御霊によって歩むとは、罪のない状態で愛の実をあらわして生きることでした。これが、狭い門を通って狭められた道を歩むことでした。この生き方が光の中を歩むことでした。この生き方が、神のみこころを行う者が神の国に入るとイエスさまが言われた隠された奥義です。「主よ、主よ。」と言う人たちが何故イエスさまに将来、知らないと言われる理由が分かったと思います。さて、御霊よって生きる生き方が、あなたの上に成就することを願います。神の選びはあなたの真の信仰が関係しています。神は、憐れみと恵みによって望む者をお選びになるのです。聖書には、永遠の昔から選んでいると書いています。あなたに真の救いを知らせました。アーメン。

御霊によって歩むという意味について

パウロが良く使う教えです。この意味を知ったのは私が真理の御霊を受けてからです。一世紀当時のクリスチャンたちは、ほとんどの信者がイエスがキリストだとを信じることによって御霊を神から受けていたようです。彼らは御霊を受けていたため、パウロの言う意味がよくわかっていたと思われます。しかし、現代では単にイエスを福音の三要素を知って信じたつもりになっていても、牧師たちでさえ、御霊を持っていない。牧師たちは学校の先生が数学や物理を教えるように聖書を知識として教えていますが、彼ら自身の告白によれば、公然と罪を犯していることを話し、神と聞く人たちに罪の告白をしています。この点は正直で良いのです。問題は何故、御霊を持たないかです。その理由は、古い人格が邪魔をしているため罪を犯す。そのため、御霊を受けられないのではと分析しています。つまり、思いを作り直すことに失敗している、自分を十字架につけていない、そして聖化、栄化の教理がかれらを盲目にしている。これが、原因で神に選ばれていない。そのため御霊を受けられない。つまり、そもそも、御霊を持っていないので、御霊によって歩むことが理解できていないということです。ご参考になれば。アーメン。

神から生まれた者は罪を犯すことが出来ない

6 だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

7
子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

8
罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

9
だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。( ヨハネ第一3:6~9)

 

 

神のみこころは「信者が罪を犯さず、神の義を行うこと。互いに愛し合うこと。」です。これを御霊によって実践する者は永遠に生きます。

 

あなたも神に選ばれて真の救いを体験することを切に願います。アーメン。

真のクリスチャンはどんな状態の人か?

1 イエス・キリスト使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、

2
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

3
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

4
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

5
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。( ペテロ第一1:1~5)

 

 

真のクリスチャンは「真理の御霊」をもっています。その御霊によって罪がきよめられ、新しく生まれています。その人はキリストに属し、神によって聖別されています。

 

自分がそうありたいから、願っているからと、自分の思い込みでクリスチャンになれるわけではありません。そうではなく、真のクリスチャンは、神の予知に従い、神の選びによってそうなったのです。人はどのようにそれを知るのでしょう。真理に従い続けることによってです。キリストに属する者は自分を十字架につけることで、罪から逃れたのです。ですから、もし罪を犯し続けているなら、その人は、キリストとは何の関係もありません。キリストを見たこともないのです。アーメン。