フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。( ヘブル10:26~27)

この聖句に対して多くの牧師さんがネットでご自身の意見を述べていました。みなさんはどう思われますか?パウロが誰に対してどういう意味で言われているのかを知りたいと思いませんか?もし、聖書の勉強をした人すべての人に対して言われているのであれば、はっきり言って救われる人は一人もいなくなるでしょう。どうすればいいのでしょう?ある牧師さんは真っ先に自分が地獄へいくことになると書いていました。ヘブル人たちの中にもとの律法に戻りたがっている人たちがいるのでその人たちに向けに書かれているという分析をする方もおられました。聖書はこれほど難しいのです。怖い言葉です。さて、私の分析です。真理の知識とはキリストが人間の身代わりに死なれたことによって信じる人は救われるという知識。この知識を信じて受け入れた人が、ことさらに罪を犯し続けるならば、 罪のためのいけにえは、もはや残されていないということです。クリスチャンになっても人は皆罪を犯します。そのためにイエスがおられます。死を来たさない罪は悔い改めるならば赦されますが、悔い改めることなく意図的に罪を犯し続ける人がいれば、アウトということです。聖霊に対する冒涜の罪、イエスを愛さずに捨てる罪、悔い改めない罪などがそうです。従って、罪を犯す傾向を人は持っているので、放縦な生き方をせず、罪を離れる生き方をすることです。自制することです。貪欲を捨てることです。貪欲は偶像礼拝です。主よ、主よというだけでは、父なる神のみこころを行なっていません。神のみこころは、神と隣人を愛し、キリスト・イエスにあって聖くあることです。これは、人の意志力だけでは不可能です。御霊にゆだねることが必要です。罪を犯し続けることがないように祈りましょう。聖くなければ、神の王国へ行くことはできません。信仰によってのみ、子羊の血によって聖いとみなされるということです。御霊の助けによって罪から離れましょう。そして世を征服しましょう。