フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

栄光の神が共にいてくださる

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」 (コリント第一15:1~5)

以上はコリント教会の信者に宛てたパウロの手紙です。「福音のことばをしっかり保っていれば、この福音によって救われる」とパウロは証ししました。キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、三日目に復活されたことです。神は愛ですが、罪を赦すことはされません。罪が赦されるためには誰かが血を流さなければなりませんでした。旧約時代は動物が人の身代わりに血を流すことで神は一時的に神の民の罪を赦されました。イエスの聖い血が一度限り流されたことで、信じる者に罪の赦しが与えられました。イエスは律法を成就した方で、この方により父なる神の御要求はすべて満たされました。そのため私たちは、613ある律法から自由になりました。律法は十字架につけられ、私たちの罪も十字架につけられました。イエスは身代わりに死なれ、そのイエスを三日目に父なる神が復活させることで私たちの信仰を義とみなし、ご自身も義となるようにされました。イエスは肉において死にわたされ、義においてよみがえらされました。神に対して生きるためです。

この福音によって救われるのです。ただし「この福音のことばをしっかりと保っていれば」です。

私たちはイエスが約束された聖霊を与えられることで、肉に従うのではなく、神の霊に導かれて生きるのです。「あなた方の内に神の霊が宿っている限り、あなた方は肉ではなく霊の支配下にある」「あなた方は恵みのもとにいるので罪はもはや、あなた方を支配することはない」「キリストと結びついている者は決して罪に定められることはありません。命をもたらす霊の法則が、罪と死をもたらす法則からあなたを解放したからです。」しかし、体が購われていないため、魂に戦いを挑んでくる肉の働きを自制する必要があります。キリストを信じる者は古い人格と情欲と欲望を十字架につけたのです。そして神によって新しく生まれるのです。この新しく生まれることが大切です。食欲、性欲、睡眠欲は生きていくために神によって与えられました。すべてに関して、クリスチャンは自制します。

情欲を遠ざけるようにパウロは若いテモテに手紙を書き送りました。ペテロは婚姻関係にある夫婦であっても、神を知らない諸国民のように貪欲な性欲のままに歩まないように警告しました。貪欲は偶像礼拝です。共通理解として、食べ過ぎ、飲みすぎ、眠りすぎ、貪欲に性欲を満たすことを自制することが神の御心だということです。自制を働かせることが貪欲に打ち勝つことであり、同時に世に打ち勝つことでもあります。神の霊、真理の霊、聖霊はみな同じ神ですが、内に宿っていれば、肉に支配されません。罪を離れることが出来ます。誘惑や恐れがあってもいいのです。神の霊によってそれらを退けることが出来るからです。肉の業を習慣化しないようにしましょう。習慣にしている者は神の王国を受け継げないと聖書の中で再三警告しているからです。人間の意志の力だけでは罪を離れることは出来ないでしょう。栄光の神が共にいてくださること、神が内に住んでおられること、神の臨在を感じることが必要です。肉に従う生き方をするなら私たちは死ぬことになります。御霊によって、自制しつつ、生きるなら命に入るのです。たとえ罪を犯してもイエスがおられるからです。だからといって放縦にいきることは否なのです。御霊に導かれるとは、自制をはたらかせつつ、神にゆだねて生きることです。聖書に書かれていないことについては、神は重要視されません。パリサイ人が作った規則と同じです。40回以上のむち打ちを律法で禁じているから39回までと考えたのは人間の規則でした。罪を犯さないようにと考え、聖書に書かれていないことを人間が勝手に解釈して守ろうとする必要はありません。クリスチャンは自由の民だからです。