フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

推定無罪

律法はイエスが人間の代わりに成就しました。信じる人間を救うために。律法は永遠に生きるためには守る必要がありました。しかし、人間には果たせなかった。果たさなければ、人間は、滅びなければならなかった。人間の罪は私たちの代わりにイエスが十字架上で死に血を流されたことで赦された。そのことは神の救いのご計画だった。父なる神の人間に対するご要求はイエスにおいてすべて成就し、信じる者たちは罪から解放された。肉においては一度死ぬことと死後裁きに会うことが定められているが、霊においてはイエスがよみがえらされたことによって、私たちは信仰によって正しい者つまり義人とみなされています。赦されない罪はイエスを信じないことと、御霊に逆らう冒瀆です。

 

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31〜32)

 

聖書の難しいところは、教えに従うことです。以下の聖句は正しい教えで守るべきです。たとえば、「舌を押えて悪を言わず」という教えがあります。守るべき教えですが、聖書で他の個所では「舌を制御することは、だれにもできません。」とも書かれています。続いて、それでも守るように言われていることです。矛盾した教えです。律法もそうでしたが、守るべきでしたが、人間にはできませんでした。イエスが代わりに行なってくださいました。人間には不可能であっても神にはすべてのことが可能ということです。以下の聖書を参照してください。

 

 

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」( ペテロ第一3;10~12)

 

 

しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。  (ヤコブ3:8~10)

 

結論

 

エスを信じるなら、イエスの義によって無罪となることです。あらゆる種類の貪欲に関しては偶像礼拝ですので、貪欲を御霊の実である自制によって避けましょう。信じる者はイエスの義によって罪なしとみなされます。しかし、聖書で罪を犯し続けてはならないと教えている。神から新しく生まれた者は罪を離れることが出来、聖なる者となる。教えを守りましょう。出来ないことは、イエスが成就してくださいました。だから守らなくてもいいといことにはならず、守りましょう。人間には不可能でも神には可能だからです。イエスを信じるなら無罪です。聖書に書かれていないことは、人間の勝手な推測や解釈に従わず、守る必要はありません。恐らく人間の勝手な憶測による重荷はサタンから来ていて人間を神から引き離そうとするものだからです。聖書に書かれていないことは神が望んでいないことです。聖書にはっきり書かれていることを守りましょう。イエスは世を征服しました。信じる者は同じように世を征服するのです。