フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

神が与える喜びを感じる状態について

なぜ、喜びを感じるのか?

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。 (ローマ8:1~2)

 

聖書の答えは

「御霊によりこころが聖められ、子があなたを罪から解放したからです。」

 

こころが聖められたらどうなるのか?

「勝利をおさめる者、傷のない者」となります。罪からの完全勝利です。ただし、世の終わりまでイエス・キリストがいつも一緒にいてくださる必要があります。後で余談として話す、ある教団の教理はこの点で間違っています。イエスなしで大丈夫のようなことを言っています。ほかにも間違いはありますが・・・。

 

例をあげると罪である「こころの情欲」、これが一番人間にとって厄介な存在です。罪の力が強いため、ふつうはこれには勝てません。イエスをほんの少し信じている人がいくら祈っても勝てない。なにをやっても勝てない。そこで、諦めてしまった牧師の説教を聞いたことがありますが、本当はここでなぜ勝てないのかと考えなければなりません。(余談ですが、これは、みなさんも多分、御存じのソン・ケムンさんの得意分野ですね。彼は多分勝利していると思われます。彼の所属する教団の教理には問題はありますが・・・。余談でした。)なぜなら勝てない人は自分のこころの中で情欲の対象をつくって楽しんでいるためです。多くのクリスチャンが罪と戦うと言っているものがこれです。勝つ方法はパウロが言われたように、自分の思いを作り直すのです。これは人間が行なうことです。それから神に変えていただくのです。罪の力が強いといっても、その力が勝てないのが、「聖められたこころ」です。「聖められたこころ」をもった人は罪が絶対に勝利出来ないことを体験しているので「世の征服者」として喜びます。

 

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。 (ペテロ第一1:8~9)
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 (ヨハネ第一1:7)