フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

自分こそ神であると宣言する滅びの子が現れてから主の日が来る

主の日がいつ来るかについては、その正確な時刻は父なる神だけが知っている。(マタイ24:36)しかしパウロがテサロニケ人への手紙の中で自分こそ神だと宣言する滅びの子(テサロニケ第二2:4)が現れなければ、主の日は来ないと言っている。(テサロニケ第二2:3)主の日にイエス・キリストは聖なる巨万の軍を引き連れて来られる。(ユダ14~15)そして救われるべき、選ばれたれた者たちを天の果てから地の果てまで四方から呼び集められる。(マタイ24:31)大きな苦難の日数が少なくされなかったら、一人として救われる者はない。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされる(マタイ24:22)(マルコ13:19~20)とイエスが語られた大きな苦難の日とは、獣の刻印を受けさせる日のことと思われます。その日数を少なくし、選びの民を助け出すために主が来られる。この間、にせキリスト、にせ預言者たちが現れて選民たちをも惑わそうとして不思議なことをして見せます。(マルコ13:22)また、大いなるバビロンの滅びと天変地異があります。この後に主の日が来る。その時がいつであるかは、だれも知りません。(マルコ13:32)獣の刻印の拒絶による殉教者の数が満ちてからキリストは来られると思われます。携挙については、黙示7:13~14で民が集められた、その場面の説明があります。天にいる長老のひとりがヨハネに「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と聞いたあと、「彼らは、大きな艱難から抜け出てきた者たちで、その衣を子羊の血で洗って、白くした」と長老が答えている。携挙がこの時にあったことが分かります。なぜなら、マルコの箇所で、こういう記述があるからです。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコ13:26~27)こうして昼の中を歩む聖徒たちにとって主の日が救いとなる。(テサロニケ第二1:6~7)大いなるバビロンが滅びる前まで聖徒たちは、地上にいる。聖徒たちはバビロンから出なければならない。(黙示18:4)大いなるバビロンが神の意図により、獣によって滅んだ後、(黙示17:16~17)天変地異があり、続いて、携挙があり、天で婚宴が開かれる。地上では、御使いたちが焼き尽くす火としてハルマゲドンに集まった軍勢と諸国民たちを滅ぼします。この地は火のために留め置かれている(ペテロ第二3:7・10)と聖書に書かれていることの成就である。地にいる不信仰の者たちに突然の滅びが臨む。彼らは決して逃れられない。(テサロニケ第一5:3)これは人の住む全地に及ぶ。(ルカ21:35)すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べる。(黙示19:19~20)神宣言をする獣の刻印を拒否したために殉教者となった人たちがおり、大きな艱難を通って艱難から出て来て天に引き上げられる多くの群衆たちもいる。主の日は福音が宣べ伝えられた以降、獣の刻印時代以降、獣の攻撃による大バビロンの破滅以降、天変地異以降、獣による刻印を拒絶し、殉教した人々の数が満ちてから、多くの群衆を救出するためにキリストが来られる。そして聖徒たちの携挙があり、聖徒たちは地上からいなくなる。そして地上にいるハルマゲドンに集まっている軍勢と全地の大半の不信仰の者たちがキリストと御使いによって滅ぼされる。(ゼカリヤ13:8)まず、主の日に、キリストが再臨されたとき、主と結ばれて死んだ旧約時代の聖徒たちと新約時代の聖徒たちそして獣に殺された聖徒たちが先に第一の復活をし、(黙示20:4・5)次に地から贖われた者たちである14万4千人(黙示14:3)とその長い衣を子羊の血で洗って白くした者たち(黙示7:14)が携挙され、瞬く間に新しい体を与えられ空中で彼らと一緒に主と出会う。そしていつまでも主とともにいる。(テサロニケ第一4:15~17)14万4千人と大ぜいの群衆はおそらく同じ人たちで生きて天に携挙されると思われます。その後、天では婚宴(黙示19:7)が開かれる。時間の長さは分からない。地では不信仰の者たちに突然の滅びが臨む。(テサロニケ第一5:3)だから、耳のある人は、悔い改めて神のもとへ帰り、主イエスを自分の救い主として信じ受け入れ、罪を離れて光の中を歩み、神の御心を行ない、きずも汚点も無い聖なる生き方をしているようにしましょう。何も恐れることはありません。艱難前携挙説がありますが、この説については、私は否定的です。大変な艱難ですが、艱難は信者の神への信仰を神が強くしてくださるよい機会と考えるからです。(ペテロ第一1:6~7)(ゼカリヤ13:8~9)空中再臨後の婚宴の期間が7年という説は都合の良い解釈に思われます。黙示録が書かれた意味を考えると、艱難から逃れて初めから天に上げられ、艱難とは無関係に生きられるという考え方は願望によるものと思われます。つまり生きていれば、クリスチャンも不信仰の者も、すべての人がこの大変な時期を体験するということです。しかし、聖徒たちは艱難期間中守られる。獣の刻印の拒否により殉教する人たちが確かに出てくるが、多くの聖徒たちは獣によるバビロンの滅びの後の天変地異がある頃に携挙され地上からいなくなる。聖徒は艱難に遭うが神の怒りを受けない。例えば、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加える「いなご」がいる。(黙示9:4)この時にも聖徒たちは地上にいる。しかし、後に悪の世、つまり獣の支配から救い出される時が来る。その後、新しい復活の体に変えられた彼らはいつまでもキリスト共にいることになる。獣による殉教者たちと多くの座にすわる彼ら(死者である聖徒たち)は生き返って神とキリストとの祭司となり、キリスト共に千年の間、王として支配することになる。千年の間、悪魔は諸国の民を惑わすことができないように、底知れぬ深みに閉じ込められ、封印される。人数は分かりませんが、諸国民は艱難を通過して千年王国にいるようです。千年の終わりに、悪魔は解き放たれ、諸国の民を惑わし聖徒たちの陣営に戦いを仕掛けるようにさせますが、諸国の民である彼らは天からの火で滅ぼされ、悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれます。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける(黙示20:10)と書かれています。その後、白い御座(黙示20:11)での最後の審判を経て、命の書(黙示20:12)に名が記されている者たちは新しい天と新しい地(黙示21:1)で永遠に神と共に暮らすようになります。