フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

創世記1章1節から2章2節までについて  考えてみました  

創世記には、初めに神は天と地を創造された。から始まり地球の最初の状態が、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。と書かれている。地は形がなく、何もなかった。と書いている聖書もある。その後モーセが書いたといわれる、神による、地の創造の過程が淡々と書かれ、2章2節で創造を休まれたことが分かる。神ご自身が造られたものをご覧になってそれらを良しと見られたと書いている。私の勝手な想像だが、神様は何もない暗闇の中にある地に対して、何もないところに光を、続いて何もないところに愛を、最後に何もないところに喜びをと、ご自分の気持ちを込めて、さまざまな環境や生き物を造っていったのではないかと思った。聖書に書かかれていないので、あくまでも私の想像であるが。3節に神が「光あれ」と仰せられて光ができた。と書いてあり、これが第一日目のことで、この光が太陽なのか、霊的な光なのか、人間には分からない。二つの大きな光る物と星を造られたのが弟四日目になっているからだ。記述どおり順番に創造されたならば、地球が一番古い惑星となる。なぜなら、太陽と月と星を造られたのが、第四日目になっているからだ。私、個人の考えとしては、現代科学と一致してなくても、全くかまわない。地球と宇宙は人間のために、創造されたと信じている。宇宙の星々を神が人間の及びもつかない方法で配置なさったと考えられるからだ。ところで、聖書で「光」といえば、「命」を意味しており、「闇」は「死」を意味している。創世記1章2節目以降は、闇の地球つまり、死の惑星を命の惑星に創造していく過程の記述ではないかと考えられる。第一日目の光が、命を意味していると考える人は、ネットで調べてみてもいなかった。第一日目の光についての考え方は、聖書に書かれていないため、あくまでも私の想像に過ぎない。話は変わるが、人間の心は環境や学習、健康状態で変化する。なんとなく心がすっきりしなかったり、落ち込んでいるときなどは、こんな風に考えてみてはいかかでしょうか。何もないところに光を、(ヤコブ1章17節)何もないところに愛を、(ヨハネ第一4章8節)何もないところに喜びを(ヨハネ16章24節)と。そしてもし、信仰によって心が充実してきたら、こう言ってみては。こうして父なる神は御子イエス・キリストを通して、私のポッカリと空いた心の穴を塞ぎ、「光」と「愛」と「喜び」とで満たしてくださったと。