フツーの自己啓発

汎用性と再現性とその他

聖霊の内住を得て救いの確信を得るために

聖書に聖霊の働きについて書かれています。「あなた方の内に神の霊がとどまっている限りあなた方は肉ではなく霊の支配下にある。」「恵みのもとにいるので罪はもはやあなた方を支配することはない。」「命をもたらす霊の法則が罪と死との法則からあなたを解放した。」など。このように書かれているため、自分の場合は、果たして、どのような状態なのか?と思われる場合があるかと思います。気づかないだけで、聖霊様が住んでくださっているかもしれず、神と個人との関係のため正直なんとも言えません。しかし聖霊様に来ていただく前にまず自分を清くしなければなりません。汚れたものから離れている必要があります。聖書が非としている肉の業から離れている必要があります。それが出来ないとはいわず、人間のもつ自由意志を正しく用いて神の戒めを守るという選択をまずしなければなりません。決めることです。それからなかなか気づかないのですが、過去に犯した口にすることも出来ないような「自分の行った恥ずべき罪をすべて思い出してそのすべての罪を神に告白して許していただくようにしましょう。」この悔い改めなしに神のあわれみときよめは受けられません。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」箴言28章13節
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ヨハネ第一1章7節
主イエスを愛し、数々の戒めを守りましょう。ヨハネ14章15節
そうすれば、聖霊が与えられます。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」ヨハネ14章16~17節
互いに愛し合いましょう。 ヨハネ13章34節
聖霊を祈りのうちに求め続けましょう。ルカ11章9~10節
「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」ルカ11章13節
聖霊はこころを変化させ、自分のためではなくキリストのために生きるようにさせてくださいます。それがクリスチャンの存在理由です。
「万物は御子によって、御子のために造られた」からです。コロサイ1章16節
すべてのものはキリストによってキリストのために造られたのですから、私たちが生きるのはキリストのためであることがわかります。
それを生活の中であらわしていきましょう。
エス様は命を与えてくださった方。私たちの罪を取り除いてくださった方。
キリストの福音の意味を悟ることができますように。
そして光の中を歩むことができますように。

自分が救われているどうか?

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12) 新改訳

自分が救われているかどうかはまず、この聖句に自分があてはまるかどうかを確認することです。

イエス・キリストに従い闇の中を歩むことが無ければ、いのちの光を持つといわれています。

いのちの光を持つ生き方をしているなら、あなたは救われています。しかし、以下の警告があります。

もし、私たちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。

ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。 (ヘブライ10:26~27) 新共同訳

信仰によって生き続けることの重要性

「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22、24:13)新共同訳

「耐え忍ぶ」「忍耐する」とは「待ち望む」ことを意味します。主を待ち望むことです。

死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。
ヨハネの黙示録2:10) 新共同訳
                                       

キリストの弟子として生きていくときにクリスチャンは多くの迫害や苦しみに出会います。
日本においては、現代では迫害はありませんが、過去にはありましたし、未来は分かりません。そこで、もし迫害に会ったならば、危険な場所からは逃げてゆくことも必要でしょう。しかし、もし捕縛されたときは、信仰を捨てるのではなく、主に対する信仰を保ち続けましょう。自分の命を愛さず、死に至るまで忠実であるならば、永遠の命を与えてくださると主は約束してくださっています。神はあなたが忠実を保てるよう聖霊で満たしてくださるでしょう。


「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

ヘブライ10:37~39)新共同訳                         
             

この組織が異端である証拠

これから書くことは、他の宗教組織の批判になるため、読み飛ばしてもらっても良いと思います。
その宗教組織の考え方が、さも正しいことが書かれているように、見えるため、筆者の言いがかりとも思える言葉じりを捕らえて違うのではとの思いで書いてみました。以前の記事と重複もあり、長くなりました。

塔96 2/1 4~8ページ
救われるために何をしなければなりませんか  

このあとにこの宗派は自説を述べていますが次の 【しかし,答えはこうです。『では,何を信じなければなりませんか。イエスは実際に生きておられた,ということですか。もちろんそうです。イエスが神の子であるということですか。それは言うまでもありません。さらに,聖書はイエスを「師」,また「主」と呼んでいるのですから,イエスの教えを信じ,イエスに従順に従わなければならないのではありませんか』。一ヨハネ 13:13。マタイ16:16。】

上記に「イエスの教えを信じ」と書いてある。見過ごしがちですが、クリスチャンなら「主イエスを信じ」イエスの教えに従順に従うと書きます。また、聖書では、救われるためには、キリストの義の行ないである次の「福音の三要素」を受け入れる必要があります。

①聖書にある通りキリストは、私たちの罪のために死なれたこと、

②また、葬られたこと、

③また、聖書にある通り三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現れ、それから十二弟子に、その後で五百人以上の兄弟たちに同時にお現れになったことです。 (1コリント15:3〜5)以上の3つの要素が教えていることは、本来、罪と無関係のキリストが、十字架において、私たちの罪のために身代わりとなって神の怒りをお受けになり、死なれ、きよい血を注ぎ出されました。「血がそそぎ出されなければ、罪の赦しはない」からです。(ヘブライ9:22)
そして彼の打ち傷によって私たちはいやされました。(イザヤ:53:5)
私たち人間は自分の行いで自分を救うことは出来ません。しかし、イエス様が行われた十字架におけるこの血潮と贖いに信仰を持つならば、その信仰が神によって認められ、イエス様の義が「あなたの長い衣を子羊の血で洗って白くする」ことを意味するからです。ちなみに私たち人間の義は不潔な着物のようだといわれています。よってこの宗派の記述の「イエスの教えを信じ」、ではなく、「主イエスを信じ」と言うべきです。イエスに対する信仰が欠如しており、言葉巧みに説明をしながら、キリストを主と認めない気持ちが読み取れます。よってこの組織が反キリストをであることが分かります。

もうひとつ例をあげます。

以下に次のように記述しています。「キリスト教の信仰」を固守しなければなりません。

【クリスチャンの熱心さ わたしたちはキリスト教の信仰を固守しなければなりません。なぜなら,一部の教会やテレビの宗教番組で聞く事柄とは違って,聖書はわたしたちが離れ落ちるおそれがあると述べているからです。聖書は「まっすぐな道」を捨てたクリスチャンに言及しています。(ペテロ第二 2:1,15) 】

この宗派はキリスト教ではありません。「キリストへの信仰」を固守しなければなりません。と書くべきなのに、「キリスト教の信仰」と書きました。一見なんでもない書き方のためなるほどと、この宗派の人たちは納得して読んでしまうことでしょう。そして真実に気づかないでしょう。イエス様がこの組織では消去されていることを。キリストを心の中で主と崇めること、キリストがすべてであること、キリストにすべての宝が隠されていること、イエス・キリストの御名しか救いを得べき名は人間には与えられていないこと等を。また、父なる神が、神の子キリストに天と地のすべての権威を与え、救いと裁きの権威を与えたことは、人間が子を尊ぶためであり、父なる神の救いのご計画、御意志であることを。勿論、父なる神と主イエス・キリストを愛し信じているなら、闇の中にとどまることはせず、光の中を歩む努力をするでしょう。
自分の力では無理であっても、それを聖霊様が助けてくださるのです。神に変えていただくのです。愛と信仰があるなら、イエス様に従うでしょう。「山に逃げなさい」と言われた真のクリスチャンは行動によって西暦70年の滅びを逃れました。
信仰には行動が伴うのです。主イエスを信じて救われた人は皆、福音に従います。従うとは行動です。しかし、自分の力で行うのではなく、常に神への祈りと聖霊の導きと助けが必要となります。アーメン。

入ろう努めながら入れない者が多い

エスの上記の言葉を読んで悩んでしまった。

ネットで他の人たちの文章を読んで、愕然とした。

カトリックプロテスタントも含め人類のほとんどは滅びる?

1 人類の大部分は永遠に地獄に滅びてしまうのか?少数しか救われないのか?

全聖人達の答え:その通り。
昔の全神学者と全聖書学者たちの答え:その通り。

この意見は確実である。

2 成人カトリック信者の大部分も永遠に滅びてしまうのか?

全聖人達の答えはもう一度:その通り。
プロテスタント宗教革命以前の全神学者と全聖書学者たちの答えはもう一度:その通り。

聖アルフォンソ・デ・リグオリは、これがより共通の神学意見であると断言。


エス様の言葉


その日が短くされなければ、肉なる者は誰も救われない。

しかし、選ばれた者たちのために、その日は短くされる。(マタイ24:21、22)


ノアの洪水の時は8人だけが救われた。


救いは神にかかっている。


これは神様の側に問題がある訳ではなく、私たち人間の側の


神に対する悔い改めと主イエス・キリストへの愛と信仰が必要。


そして福音に従うことが重要なのだ。


狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい。(ルカ13:24)


この言葉が天の御国へ入るための鍵となる。


人間の側の努力と聖霊の助けが救いに不可欠である。


ならば、これが希望のすべて!


サウロとマナセの例がある。


神は人間の悔い改めと愛と信仰に報いてくださる方。


「イエス様を信じて救われた」と安心しているだけではなく、


愛と信仰があるなら、神が求めていることのすべてを生き方で示そう!


これが、人間が出来ることのすべてである。

 

闇から光へ 本当の幸せ 滅びから命へ

すべての人のための福音のメッセージです。

まず「聖書を読み、神とキリストについて知ること」が大切です。

キリストの十字架における血潮と贖いに信仰を持つ者は救われます。

聞いた福音をしっかり保っているなら救われており、永遠の命を持っています。

闇の中を歩き続ける者には救いはありません。救いに関して、これらのことを知る必要があります。

また、救われるためには、次の「福音の三要素」を受け入れる必要があります。

①聖書にある通りキリストは、私たちの罪のために死なれたこと、

②また、葬られたこと、

③また、聖書にある通り三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に、その後で五百人以上の兄弟たちに同時にお現れになったことです。 (1コリント15:3〜5)

本来、罪と無関係のキリストが、十字架において、私たちの罪のために身代わりとなって神の怒りをお受けになり、死なれ、きよい血を注ぎ出されました。「血がそそぎ出されなければ、罪の赦しはない」からです。(ヘブライ9:22)

そして彼の打ち傷によって私たちはいやされました。(イザヤ:53:5)

私たち人間は自分の行いで自分を救うことは出来ません。

しかし、イエス様が行われた十字架におけるこの血潮と贖いに信仰を持つならば、

その信仰を持った人にイエス様はこう言われるでしょう。

「あなたの罪は赦された。」

「あなたの信仰があなたを救った。」

「私を信じる者は、永遠の命を持っている。」と。
 
アーメン

聖霊が導く

あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。(ヨハネ15章8節)口語訳

上記はイエスが弟子たちに語られたことばです。

実を結ぶためにどんな賜物が必要かを、ペテロの第二の手紙1章の一部をご紹介致します。

あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、5節

知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、6節

信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。 7節

これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かになるならば、わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう。8節

盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ち込んでしまいます。実を結ぶために何が求められているかは、聖霊がその答えをペテロを通して与えてくださいました。

信仰に「徳」をの5節の「徳」はギリシャ語から「美徳」「賞賛」の両方の意味が込められているようです。「美しくてほめたたえられるもの」という意味でしょう。

6節の「信心」は神を信じる、神に祈ることで、「敬虔」となっている聖書もあります。「敬虔」は神を敬う言葉や態度をさしています。

上記に書かれている8つの事柄は、自分の力で身に付けようとせず、神の助けを祈り求めましょう。

そうすれば、実を結ぶために必要なものすべては、父なる神が豊かに与えてくださいます。

この福音によって救われる

コリント15章2節から8節

もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。2節

わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、

わたしたちの罪のために死んだこと、 3節

そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、4節

ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 5節

そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 6節

そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、7節

そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。8節(口語訳)

上記は福音の3要素が書かれており、下記にまとめると

1キリストが、わたしたちの罪のために死んだこと

2そして葬られたこと

3三日目によみがえったこと

となります。

これら3つの事柄を自分のこととして信じることで救われます。

自分が罪人であるという自覚が必要です。キリストは義人のために死んだのではないからです。

死んで墓に葬られ、三日目に父なる神がキリストを復活させました。

このキリストの復活に対する信仰が私たちが生まれながらにもっていた「罪」からの解放と「神の怒り」からの解放を意味します。

そして、復活によって「信仰をもつすべての者」に「永遠の命」がもたらされました。

これが、キリストの弟子たちの信仰です。

神は信仰をもつ者を必ずお救いになります。救いは神にかかっていますが、人間の側の求めに対して、もし、たたき続け、求め続けるなら

神は必ず救いに必要な信仰、愛、聖霊、その他聖書に書かれているもろもろの霊的な賜物を与えてくださるでしょう。